小僧の仁義なき戦い
小僧サイド
夜の散歩とご飯を終えた俺は、投げ出されたあるじの足の間に入り、ぼんやりと出窓を叩く雨音を聞いていた。あるじは出窓に沿って置かれたソファで、本を読んでいる。雨降り散歩の後は、いい感じの疲労感だ。満腹なのも手伝って、俺はゆっくりと船を漕ぎ始めていた。そのとき。
雨の音に混じって、犬が唸るような音が近づいてくる。唸り声は家の前で止まった。高い機械音。あるじが帰ってきたときの音とよく似ているが、あるじではないな。そのわずかな違いを、俺の大きな耳は聞き漏らさない。
「…あるじ、今の音聞いたか」
俺が目くばせをすると、あるじは読んでいた本から目を上げる。ぱたんと本を閉じ、俺の頭を軽く撫でて立ち上がった。
ひたり、ひたり。湿気を含んだ足音が、玄関に近づいてくる。鍵を差し込む音が聞こえ、ゆっくりと扉が開かれた。チリンと玄関扉に付けられた小さな鐘が鳴る。俺はゆっくりと立ち上がり、体のコンディションを確かめた。
音にも匂いにも鈍感なあるじは、侵入者に対して無防備すぎる。だから、俺はいつだって警戒を怠れないんだ。
もうすぐ、来る。俺は4つの足でしっかりと踏ん張り、ブルブルと武者震いをして侵入者を迎え撃つ。リビングの扉がゆっくり開き、隙間から雨とエンジンオイルの混じった匂いがした。間違いない、やつだ。
侵入するやつの黒い足が見えた瞬間、俺はソファを蹴り、高く飛んだ。黒い弾丸となって、やつを返り討ちにするために。
あるじサイド
時刻は夜9時を回ろうとしていた。20分前にLINEに帰るコールがあったので、そろそろ夫が帰ってくるはずだ。読んでいた本から目を上げると同時に、耳障りなエンジン音が近づいてくるのがわかった。
夫は特殊な中古車販売の仕事をしており、毎回違う車で帰宅する。今日はSDGSなどまるで無視した90年代のレーシングカー。このあたりは比較的高齢者が多く、夜が早い。9時ともなると人の歩く音さえ聞こえるほどに静まり返っている。その静寂の中に、あの爆音で返ってくるのはやめてほしいのだが。
足の間でウトウトしていた小僧が、爆音に気づいて顔を上げた。前傾した大きな耳を後ろに倒すように、小僧の頭をひと撫でする。私の手のひらが離れると、耳は再びピンと立ち上がった。
夫の帰宅に、小僧は敏感だ。耳も尻尾もぴんと立てて、遊び相手の帰宅を待つ。興奮を抑えるように何度も舌で鼻を舐めている姿が、なんとも言えず生意気で小僧らしい。
さて、夕飯を温めなおすか。
小僧の下からゆっくりと足を引き抜いて、ソファから立ち上がる。午後9時過ぎ。我が家の夕飯は遅い。
小僧サイド
俺はやつに思いっきり体当たりをした。油断していたのだろう、やつの身体が大きく傾く。俺はその隙を見逃さず、再びタックルを食らわせた。やつが尻もちをついた。大声で何か言っている。俺を罵倒しているのだろう。そして、床についた手の先にあった何かをむんずと掴み上げる。
ぶっ
あれは…!俺の大事なぴーちゃんじゃないか。あるじがお土産に買ってきてくれた、俺のぴーちゃん。卑劣なやつだ、ぴーちゃんを人質に取り、俺を揺さぶろうという魂胆か。
ぶっぶっぶっぶ
助けてくれ、とぴーちゃんが叫ぶ。俺はやつに突撃し、ぴーちゃんの救出に向かった。
あるじサイド
「ねえ、遊ぶ前に手ぇ洗ってきたら?」
部屋に入ってきて早々、小僧と遊び始めた夫。その手には、小僧のお気に入りの豚のぬいぐるみが握られている。犬がどんなに噛んでもちぎれないように強く縫製されたぬいぐるみで、強く押したときだけ「ぶっ」と鳴る。小僧がしょっちゅう豚の耳やら尻尾やらをちゅばちゅば噛みしめるので、完全に小僧の匂いが沁みついていた。夫はそのぬいぐるみを、まるで生きているかのように器用に動かし、小僧は白目が見えるほど目を見開いてそれを追いかけている。
人間以外の動物は、通常相手に視線を悟られないように、黒目の部分しか見えない。『イエイヌ(Canis lupus familiaris)』は比較的白目が見えるが、フレンチブルドッグは他の犬種と比べて特に白目の面積が広いため、人間の目のように表情豊かに見えるらしい。小僧の目もまたクルクルと動いて、何を考えているのかを私に教えてくれる。
小僧は私を遊びに誘うことは少ないが、夫に対しては常に強めに遊びを仕掛ける。短い尻尾をぴんと立て、ときに小刻みに振りながら、出勤前や帰宅直後の夫に戦いを挑むのだ。
「はい、おしまい!」
ひとしきり遊んだ後、夫はぬいぐるみを手放して立ち上がる。小僧は慌ててぬいぐるみに飛びつき、自分のベッドの上まで連れ帰った。ベッドの上で、勝ち誇ったようにぬいぐるみの耳を噛んでいる。
犬と引っ張りっこをしたときは、必ず飼い主が勝たなければならない。そうでなければ犬は自分が勝ったと思い込み、飼い主を見下すようになる。
古いしつけ本にはそう書いてあるけれど、私はそうは思わない。小僧と夫が戦うときは、いつも小僧が勝つが、だからといって小僧が夫を見下しているようには見えないからだ。それも、その犬の個性によるのかもしれない。
たとえ見下されていたとしても仕方ない。彼は小僧が何をしても、叱らないんだから。
小僧サイド
今回も俺の勝ちだ。100戦100勝、何度戦っても、やつは俺に逆らえない。そしてやつは俺の手下になった。俺が疲れたときには俺の枕になり、俺が命じればおやつを出す。ときどき俺に挑んでくるときもあるが、いつだって俺がこてんぱんにやっつけて、どっちが上かを教えてやるんだ。
手下よ、もう俺に逆らうなよ。
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