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ピアノの琴線

ひとつのピアノがあった
数えきれぬほどたくさん琴線をふるわせてきた彼だった
黄白色にかさむこの鍵盤もかつていろんな手がすべったものだ
あぶらのぬけた枯れ柄のような手もあれば
手入れのいきとどた冷ややかな手
稚児と母親のやさしい手々
たいくつを訴えるレトリバーのぬれた鼻先に
いたずらなネコについに踏まれちゃった青年の手
ベートヴェンの厳しさに泣いた手もあったっけ
いろんな手たちに彼の琴線は奏でられてきた。そうして、そののちに同輩らとともする何度目かの休息にはいった
うす暗い部屋でバーのような細さの天窓が黄金の線を埃にすかし射したなかに
年を数える顔見知りたちに交じって身をかたくする若造があった
むりもない。世間のかぜあたりの強いことに若さは驚いてしまうものだ
ここにいるみなもそう。しぜん、あるがままを受け入れるようになる
そう言ってやれればどれほどいいか、彼は急にかたる口をもたぬことを残念におもった。残念になった心でまた、なくて良かったとあるがままを安堵した。
その瞬間、よこぎる影に天窓が瞬いた一瞬、彼の艶ふかい筐面にはかたく振りかぶられる拳のようなものがあったきがした
脇戸があいた。うす暗がりに作りのあまいきぃきぃと音をたてるのも我関せずに、いつものように革靴のかかとをコンクリートですり減らしていく小男は面倒見のよい男だ。私たち一つ一つのよれてたわんだ琴線をよくととのえてくれるいい奴で。たまの香気と獣臭をただよわせるときなど辟易とするけれど。
小男はいつも様子伺いに部屋をひとまわりしてから作業にかかる。段取りどおり進めてまちがいないか、先日のチェックに不備はないか、まるきり問診にまわる医者だと同僚に揶揄されるめつきでもって。ひどく真面目なのだ。
そんな小男の顔つきを彼はおのれの筐面にうつしとったとき、ついに自分の番がまわってきたことを知った
予兆はあった。いつからか古参とよばれるようになり彼より古いものはおとづれる度に姿をけし、一番の古株になったときに
小男は調律のおわりにやるように彼の痛むことをわすれたあとに手をやった。鍵盤にではない見た目にわからぬ工夫のあとに
そうして彼はいま森のはずれにある。
老いたものや抜け殻が山と積まれて放らるなかから人の子に引きずりだされ、もてあそばれるうちにいくつかの琴線はだめになり、ついには人に尻にしくことすらもわすれさられて。
はじめて彼は自然を感じることをした。
野ざらしの筐体は荒れ果て微細な生物に巣食われながらも彼は、しっかと起立しながら自己を体感していた。
たとえ雨風の浸食に穴があき、工夫がはがれ隠れた地肌をさらそうと気にもならなかった。
彼は琴線をふるわせていた。
彼の琴線に手をかけるものには目的がなく、意図がなく、無目的なそれのなんと自由なことだろう
――私は今、あるがままの私を奏でている

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