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森山未來のこと。

Instagramを更新するときに、#にしゅうかんまえのわたし、というタグを付けている。そもそもはこのご時世の中で、外出したことをすぐに外に出すのははばかられるな、とやりはじめたことなのだけれど、せっかく自分の吐き出し場にnoteを作ったのでここにも書いておくことにする。

2021年7月1日、兵庫県立芸術文化センターで『未練の幽霊と怪物』を観た話。


この感動は書いとかないと、と思いながら時間が経っていたら、惰性で見ていた開会式にまさかの森山未來が出てきて世界線がリンクしました。ちなみに未練の幽霊(座波)と未練の怪物(敦賀)の2本立て構成、と思ってもらうと分かりやすいです。

そもそもこの舞台、去年取ってたチケットが払い戻しになって今年改めて取り直したわけなんだけど、このタイミングで見られて本当によかったです。能が下敷きにある現代劇。わたしも能は仕事で「土蜘蛛」を見ただけで全然詳しくないんだけど、予備知識があるほうが楽しめるっていう演劇の魅力は存分にもぐもぐできました。

現実に生きる人間である「ワキ」(今回はどちらも旅行者)が、地元民の「アイ」(これは双方名優片桐はいり)の語りを通して、未練の幽霊(新国立競技場のデザインが白紙にされて2016年に死去した建築家ザハ・ハディド、これが森山未來)や未練の怪物(廃炉になったもんじゅの化身、これは石橋静河)として舞う「シテ」に対峙するという。なんのこっちゃかもしれませんが、そういうことだ。

能楽はダクソフォンなる初見の楽器やらインプロみのある(けどたぶんめちゃくちゃ計算されている)七尾旅人の歌唱やらに置き換えられて、わたしたちも無責任な旅行者としてその空間に存在する。没入感ありありの2時間でした。

そう、その森山未來が。ザハにとっては存在するはずだった新国立競技場の墓地でもある新国立競技場の中心(かどうかは知らんけど)で未練の幽霊として(かどうかも知らんけど)舞っている。

なんかいろいろあったけど、小山田圭吾は同じ人間という生き物として許せないけどじゃああなた小山田圭吾に石を投げられますかって言われるとわたしは躊躇うんじゃないかなって思うフリッパーズ・ギターの音楽はすきなわたしとか、ラーメンズがすきなわたしのことがすきだったのかもしれないけどクリエイターとしての小林賢太郎は世界に誇れるってやっぱり思っているあの頃とはちがうわたしとか、わたしにとってまあ、見てよかった開会式だったのかもな、って思いました。

ピクトグラムのやつは完全にポツネンでしたね。

パンフレットも読み応えがあって、ひとつのムック本のようでよかったです。件の西成note(しまだあやさんの文章はすきです)に触れて結ぶのもよかった。ほんとうにわたしたち、無責任な旅行者である。

でも、自分の感受性には責任を持っていたいわね。茨木のり子。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

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