「象は、大勢に拍手され、見物され、あっという間に忘れられるんです」
『象の旅』ジョゼ・サラマーゴ 木下眞穂 訳
フランシスコ・ザビエルが日本を訪れた頃の話。彼を派遣したポルトガル王ジョアン三世は、舅であるスペイン国王を訪ねてバリャドリードに滞在中の従弟のオーストリア大公マクシミリアン二世の婚儀を祝う品は何がいいかと頭を悩ませていた。妻のカタリナ・デ・アウストリアが、象がいいと言い出したのが事の始まり。二年前にインドから来て以来、毎日、樽一杯の水を飲んで、大量の飼葉を食べ、寝ているばかりで何の役にも立たない。いっそのこと、他国にやってしまえば厄介払いができる、と王妃は思いついたのだ。
その象の旅についていかにも見てきたように語るのは、ポルトガル語世界初のノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴその人だ。象がリスボンからウィーンまで旅をしたのは実話である。資料がないかといろいろあたらせたものの、細部については分からないことが多いので、そこは文学的想像力を縦横無尽に駆使し、小説に仕立て上げたのが、作家の最後を飾る作品となった。ジョゼ・サラマーゴは、一章を構成する文章がほぼ改行なし、会話と地の文を区切る引用符もなし、という独特の文体で知られている。
それだけ聞くと、何やら牛の涎のような文章が続くような気がするだろうが、心配は無用。機略縦横の語り手が八面六臂、登場人物になりかわり、身分の上下に応じた科白を使いわける。そればかりではない。何についても一家言ある語り手は、歴史ものであることは重々承知の上、現代人である読者にも話がよくわかるように、ヒンドゥー教の神々とキリスト教の神の相違から、狼の習性、当時の距離の単位まで、逸脱を恐れず説明の労を惜しまない。その語りの持つ無類の面白さは、あのA・K・ル=グウィンの保証つきだ。
象の名前はソロモン。一緒にインドからやってきた象遣いの名はスブッロ。珍しさもあって初めは騒がれたもののすぐに忘れ去られ、着ていたきらびやかな衣装は今ではぼろぼろ、象の体も垢まみれ。久しぶりに象を見た王は、この有様ではポルトガルの威信にかかわると思い、象を洗わせ、象遣いに衣装二着の新調を命じ、象遣いの助手二名、水と飼葉を運ぶ要員数名、水桶をのせた荷車を引く牛二頭、それに護衛役の騎兵隊をつけ、オーストリア大公の待つバリャドリードへと象を送り出す。
自動車のない時代、陸上移動の手段としては歩くしかない。象はともかく、重い荷をのせた車を引く牛が一緒では一日の行程はしれたものだ。おまけに象は餌を食べると眠くなる動物で、寝ているところを起こすと機嫌が悪くなる。象遣いは、象の性質をよく知っていて、牛の数を増やし、人の手を借りて押すなど工夫をしながら、一隊を率いる騎兵隊の隊長とも心を通じ合わせ、旅を無事進めてゆく。主人公は象だ、と語り手は言うが、象は口をきかない。そのぶん象遣いの出番が多くなる。
この象遣い、年は若いが物知りで、王侯貴族を相手にしても怖めず臆せず言い分を主張する交渉術にたけた男に設定されている。その上、広い世界を見てきたせいか物の見方がやけに哲学的。ジョゼ・サラマーゴは寒村の農家の息子として生まれ、様々な職を転々としながらジャーナリストになるが、政治的な理由で職を追われ、作家となった。筋金入りの共産主義者で無神論者の作家が、自在な語り口で、象遣いはおろか、象の頭のなかにまで入り込み、長年にわたって考え抜いてきたことを忌憚なく吐き出す。たとえば次のように。
ミゲル・ゴンサルヴェス・メンデス監督がジョゼ・サラマーゴを撮った『ジョゼとピラール』というドキュメンタリー映画がある。現在、期間限定で日本語字幕付きのものが、YouTubeで視聴できる。『象の旅』執筆の過程も題材の一つだ。晩年の老作家が歳の離れた妻のピラールと世界中を駆け巡る様子を見ることができる。ブックフェスの会場にはサインを求める数百人ものファンが列を作り、作家は老体に鞭打って最後までサインをし続け、本当は嫌いだとこぼしながら、写真撮影にも応じていた。
映画を見てわかった。象はサラマーゴなのだ。「象は、大勢に拍手され、見物され、あっという間に忘れられるんです。それが人生というものです。喝采と忘却です」とスブッロは言う。ノーベル賞作家などというものは、そう易々とお目にかかれるものではない。見物できるとなったら客は大騒ぎで駆けつける。どこへ行ってもそれは同じで、本人は辟易しているのだろう。一度だけ移動中の車内で、故郷で開かれる記念式典に出るのを愚図るところがある。人々のためよ、とピラールに説得され、結局出ることにするのだが。
象は象遣いに意のままにされているのではない。象あっての象遣いだ。しかし、象遣いがいなくては象は立往生する。象遣いが苦境に立たされた時、象は機転を利かせて彼を助けるように動く。象と象遣いは二人で一人なのだ。しかし、傍目から見れば、はるばるインドからポルトガルまでやって来て、二年の間放置され、今度は今度で冬のアルプスを越え、はるばるウィーンまでの長旅を強いられる象が哀れでならない。象はウィーンに到着してたった二年で死ぬ。皮を剥がれた後、切られた前脚は傘立てにされた、という説明が最後にある。
もし、象に自分を重ねているとしたら、なんと皮肉な幕切れであることか。政治的に、あるいは宗教的に象を利用しようとする者たちにとって、象は単なる飾り物でしかない。一方、共に旅するなかで、異なる世界に属する者の間に共感が生まれ、心の触れ合いが生じる。思惑はどうあれ、旅の日々が充実していればいいと達観しているのだろうか。「想像、哀れみ、アイロニーを盛り込んだ寓話によって我々がとらえにくい現実を描いた」というのがノーベル賞の授賞理由だが、『象の旅』は、まさにその評にぴったりの小説だ。
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