『人間の建設』No.23 人間と人生への無知 №3
科学者や哲学者や文学者が、人間とはなにかとか、時間とはなにかを、実験やら思索やら創作やらでときあかそうとしていると思います。
われわれ一般人も、自分や周りのひとのことで悩んだり、答えを見つけたいと思ったり、自分さがしやらで旅にでたり、なにやらといろいろしています。
でも、だれもが納得するような答えはでていません。
悩んで答えが出なくてしんどくなるよりは、すっぱり割りきって「自分はない」「人生ひまつぶし」といった、みうらじゅんさん流の考えに惹かれたりもします。
岡さんも言葉を継いでいきます。
「時あるがゆえに生きているというだけでなく、時というものがあるから、生きるという言葉の内容を説明することができるのですが、時というものがなかったら、生きるとはどういうことか、説明できません。そういう不思議なものが時ですね」
「時というものがなぜあるのか、どこからくるのか、ということは、まことに不思議ですが、強いて分類すれば、時間は情緒に近いのです」
と、ここで「情緒と時間」との関連性について、前節に続き述べられることになります。
情緒が主観であり、ゆえに時間もまた主観というに遠くはない、とすれば、各人に固有な、いつも揺れ動いている情緒というものに結びついた時間がながれています。
それは計測可能でもなく、均等でもない伸縮自在なものとしての観念でしょうか。確かに、そう感じることはたびたびあります。
いっぽうで、原子時計がつむぐような、計測可能で均等で物理的な時間というものの観念がわれわれにあると思います。
これも経験上、人はかなり確信を持っていて、天体の運行、一日、四季、一年とまさに川の流れのような、約束のような時間のなかで日々を、一生を送ります。
時間の正体とは。
岡さんの話はまだつづきます。
――つづく――
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※mitsuki sora さんの画像をお借りしました。