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連載小説『青年と女性達』-二十- 果実の熟する時

二十


「ねえ、鷗村先生ったらとっても子煩悩ぼんのうなのよ」とおちゃらが云う。
「どんな風にだ」純一が興味を持って問う。
「末の娘さんをひざに載せてね『リリーや、パッパにそのお菓子をおくれ』なんて先生がおねだりしているの。そしたら莉々りりちゃんが先生に上げるそぶりして、ぱくって自分で食べちゃうのよ。二人とも可愛いね」
 其れを聞いて純一はおちゃらに釘を刺す。
「それを外でしゃべっては駄目だぞ」
「分かってるよ。それとね、先生もあれじゃとてもご苦労様だね」
「何がだい」
嫁姑よめしゅうとめ軋轢あつれきって云うのかな。奥様とお母さまが始終大喧嘩でね。両方とも折れないわけ。それを先生が間に這入はいって両方をなだめないといけないの」
「それは大変だね。只でさえ先生は軍医と作家の兼務で大変な所へ持ってきてそれか嗚呼ああ」純一はまたおちゃらの口止めをする。
「それも外で喋っちゃいけないよ」

 おちゃらは前職の花柳界で鍛えられた甲斐あって、小間使いや社交の場での仕事はお手の物で毛利家には大いに役に立った。
 志乃からは引きも切らず「おちゃらや、お文や」と呼ばれて笑顔で何事も尽くした。毛利家の社交の場でも接客に如才じょさいなく活躍した模様だ。
 行儀見習いに関しては、日本舞踊やお琴こそ本職だったが、所作から始まり華道、茶道、書道の三道を始め香道までも武家仕込みの御母堂にみっちり仕込まれた。これには流石さすがのおちゃらにして音を挙げそうになったと純一に語った。
 そうこうするうちに一年間があっという間に過ぎた。おちゃらは立派に勤め上げて、純一の喜びも一入ひとしおだ。

 
「この一年ご苦労様だったね」と純一はおちゃらをねぎらい、改めて正式におちゃらに求愛の意志を伝えた。
「己は、お前をめとりたい。いいか」
 おちゃらがはにかむ。頬から耳に掛けてが上気したように赤味を帯びた。
「はい、慶んで御受けします」とおちゃらが云った。
「おお」と云ったきり純一の、次に何をするでもなくもじもじと手持ち無沙汰な様子におちゃらがたまらず云う。
「貴方のお言葉を私お受けしましたのよ。この気持ちが変わらないうちに……もうったら。此処でも私に主導権を執らせる御積りかしら。此処は貴方でしょ」とじれったく体をくねらせた様子に初めて、純一が気付いておちゃらを引き寄せて唇を合わせた。

 五月晴れの東京は鷗村邸、観在荘では間もなく純一とおちゃらことお文の結婚披露式が開かれようとしている。
 鷗村夫妻の媒酌ばいしゃくでこの晴れの高砂たかさごの舞台に昇った二人にとって今日は一生一度の主役として、鷗村と志乃夫人の間に収まってかしこまっている。
 純一が見るに、両家の親族や大村お雪夫妻や瀬戸夫妻、それに植村の婆さんとお安の姿もある。

 鷗村は気を利かせて純一とおちゃらの恩人とも云える坂井夫人をも招待した。今日に先立って純一の負債を鷗村自ら肩代わりして夫人に弁済し、それぞれに安心を与えた。其れのみならず純一の次作は無事校了して、鷗村の推挙により近々世に出るだろう。婚儀への祝いとしては破格の有りようだ。

 

 

――二十一へ続く――





※画像は「リカ」さんのものをお借りしました。

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