『寝る前5分のパスカル「パンセ入門」』について(4)
アントワーヌ・コンパニョン著『寝る前5分のパスカル「パンセ入門」』を通読して、特に私の印象に残った回について振り返りましょう。
今回はその第4回、最終です。
37「もしもお前が私を見つけていたのでないならば、おまえは私を探しはしないだろう」
以下「 」内は著者による『パンセ』からの引用です。
「心を悩まさないでよい、もしもお前が私を見つけていたのでないならば、おまえは私を探しはしないだろう。」
この文章はどう読み解けばよいのでしょうか。難しい言葉は一つもありませんが……
またしても、文のかたちは逆説的、あるいは堂々巡り的ですらある。これは恩寵の性質をとらえようとしているからであり、また恩寵は神秘的ですらあるからなのである。
探し求めるのはすべて恩寵の結果であるのだから、神を探すことは、神に探されているということなのだ。探し求めるのは人間の行為であると同じくらい神の行為である。
どうやら、今回は神の「恩寵」に深く関わるようで、難解というかわかりにくいです。
パスカルは『パンセ』が日本人に読まれることは想定しなかったに違いありません(笑)。パスカルにもう少しかみ砕いてもらいましょう。
「人間による神の追い求め方は二つあります。神による人間の追い求め方も二つです。
……というのは、神は人間をお探しになって、その人間に信仰のかすかな兆しを与え、道に迷うその人間が神に向かって『主よ、あなたのしもべをお探しください』と叫ぶようにしむけますが、そのようにしてくださるための探し方と、それから叫ぶ人間のその願いを神がかなえ、人間に神ご自身のお姿を現されるために、人間を改めて追い求めてくださるときの探し方とは、全く異なるのです。」『恩寵文書』
探し方には二つの段階があるということですか。少しわかってきたような……続けましょう。
「私たちが神をかすかながらに探すときの探し方は、神が私たちに世の様々なしがらみから逃れたいというはじめの願望を与えるときのものであって、神がそれらの束縛を断ち切ってくださった後、私たちが神に向かって歩み、神の教えの道を走っていくときに神を探す探し方とは、全く異なります。」『恩寵文書』
ただの「ヒト」と、天使に近づいた「人」との違いですか。わかった気がしてきました。
私が日本人であり、信者でもなくキリスト教や神学に日常的に馴染みが薄いことなど、深い理解への到達に対して負の要因はあります。でも……
一念発起で昨年、一年がかりで新約聖書と旧約聖書を忍耐強く全編読みとおしたことを思い出します。
一回読んだたけですが、一応それに触れておきます。何か残っているはずですから。(ドヤ!)
今回、この入門書を読んで、パスカルの『パンセ』について少しはわかった気がしています。
これを機に『パンセ』全文や、モンテーニュの『エセー』の再読にも挑戦したいと思います。
最後に、岡潔の言葉を引用して心の励みにしたいと思います。このシリーズをお読みいただきありがとうございました。
わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっているのです。
発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかるということです。「『最終講義』懐かしさと喜びの自然学-知、情、意」より
※すぴー さんの画像をお借りしました。
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