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なぜ微毒親と向き合おうと思ったのか

私の母はこんなひとでした。

私の母は、気分屋で自己肯定感が低くお金に執着があり周りの目を気にして理想はやたら高く他人にも自分にも厳しく我慢をしては時々爆発し、さみしがり屋でコントロールをしたがる人でした。でも一方で、ひとが好きで基本的に明るくて楽天的で芯が強く回りを巻き込むのが得意な人でした。

保育士だった母は、当時は少し遅めの30代を迎えてから結婚妊娠し、子育てに専念するために退職。どちらかというと真ん中より下の経済状況ながら専業主婦として、長女のわたしと弟二人の子育てと家事に専念していました。

「子育てとはこうあるべき」という理想があり、父の関与を拒んで自らワンオペ育児&家事。一度決めたことは守り抜く性格もあってか、周りに耳は貸さずに頑張りまくり、度々ご乱心。そして子供に当たる日々。亭主関白な性格の父との関係もよろしくなく、家なのに家じゃない場所で父と母の顔色を窺いながら生活していました。さみしがり屋な性格と教育方針から、友人と外に行くことはよしとされず、自分の世界に没頭することもよしとされず、早く大人になって自立したい一心で過ごした子供時代でした。

そんな母が、私が中学生の頃にガンを発症。(ガンと知らされたのはかなりあとになってからのことでした)その影響もあり、母の性質はもとよりも何倍も強くなり…。それでも病気の母には優しくしなくてはという思いと、反抗期真っ只中の自分の苦しさとでもう大変。合法的に家と距離を置くために、敢えてハードな部活を選びました。

私が高校生の頃には、積極的な治療はほとんどせずに自宅で療養するように。母に代わり毎日家事をして勉強と部活との両立に励む私に、「あなたは優しくない」という呪いの言葉を残されたのもこの頃でした。高校3年生の春、「自分の好きなように生きなね」という解放宣言から少しして母は病院で亡くなりました。

「母が亡くなって悲しい」より「やっと解放された」という思いの方がつよく、当時泣けませんでした。今も「生きていてほしかった」とも思いません。(母親が健在で仲の良い親子に憧れはありますが)私の母は、総じて嵐のような人でした。

こんなにも微毒親が人生に影響しているなんて!

母が亡くなった次の年に私は大学に進学。大学生の間は、解放されたように楽しく自由に過ごしました。仕送りがあったり、帰省した時に楽しそうに過ごしていたりする友達が羨ましくはなったものの、全体的に満足していました。

ところが、社会人1年目に適応障害を発症し退職。アルバイトをして1年過ごした後、結婚して「これで人並の幸せが手に入れられる」と思ったものの相手の不貞が原因で離婚。その後も何度か転職を繰り返し、宗教やマルチに騙されかけ、人生のどん底を味わいました。学校では優等生だった私は、自分のことが自分で許せませんでした。

(認めるのも嫌ですが)母と同じく、人を頼れない性格の私は、本気で死を選んでしまう前にと心理カウンセリングを受けてみることに。またこの頃、毒親やHSP、アダルトチルドレンについても知り、苦しさの原因を自ら調べるようになりました。

ひとの価値観や考え方や性格は、育った環境にも由来しているといいます。親子だからもともと似ている部分もあるし、影響を受けている部分もかなりあります。だから私は絶対母のような母になりたくないし、そうなってしまうのが恐いから結婚も妊娠も恐いです。そしてそれだけでなく、やたら自立しすぎているのも、頼れないのも、自分のことが好きになれないのも治したいのに治せない。「どうして私ばかりこんな目に…」なんて悲劇のヒロインになり「わかってほしい」と思ってしまう自分もかなりめんどくさいです。

「インナーチャイルド」を癒すことが大事といいますが、しんどかった当時の思い出をさかのぼることがまず辛く。何度かチャレンジしても挫折して今に至ります。

それでも私はもっと自由に生きたいし、恐れずに遠慮せずにやりたいことをする人生にしたい。母を一生引きずりたくないし、呪いを解きたい。世の中にはきっと私より壮絶な体験をした方も多いと思います。だけどこれは私のための私のチャレンジです。時間はかかるかもしれないけれど、きっと子供の頃の私を大人の私が癒して助けたい。

1年後、少しでも楽になれていますように。

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