吉屋信子「黒薔薇」〜「永遠の少女」は死ぬ〜
見出しの通り「くろしょうび」と読む。
著者29歳、1925年の作品。
レズビアンの教師章子と、その教え子の美しい少女和子との、親しみと愛の中間の関係を書いた小説。
まず記憶に残るのは当時の社会に常識としてはびこる女性蔑視だろう。
たとえば章子の学校の校長は女生徒たちの生理の有無の検査を行う。それによって学業に出る影響を調べるというのだ。
章子は憤る。
この後も女性徒の授業を削りマッサージを習わせ、父兄会では「盲目のあんま(※あんまに強調点)さん以上だから安心してほしい」と演説を行うなど、女性の人格を認めず、「モノ」として扱う描写は読んでいても胸糞が悪い。
もう一つこうした描写がある。同じく校長のセリフである。
彼は校長会議がいつも国内ではつまらないので、大連―1915年の「二十一ヵ条の要求」により租借権が九九年延長されている―行おうと話す。
女性性に対する敬意や配慮はここにない。そしてこうした人間が女性徒の教育に携わり彼女たちの生理について調べそれが新聞に載る。
現在の日本でも政治家の多くは高齢の男性である。権力と男性性の歪な結びつきは未だに残っている。
この後の章子の「男の人たちのあの一種へん(※本文へんに強調点)な昂奮感を交えた笑声が窓硝子(※まどがらす)を震えさせるほどに響き満ちた。」という言葉は重い。
私たち男性は集団になったとき、奇妙な高揚に包まれる。
わざと誰かをバカにしたり、決まった一人をからかって、「自分たちが共通の存在(※男性)であること」を確かめたがる。そのために悪や暴力を用いる。「こうしたことができるくらい自分たちのつながりは密接である」と言いたいように、その実は激しい裏切りの怯えと恐怖から、私たちは余計に悪や暴力を繰り返す。止まらなくなるのだ。
それは本当に怖い。何度出くわしても慣れない。見るたび死んだほうが楽だと思った。
さて副題〜「永遠の少女」は死ぬ〜について。
「黒薔薇」の最大の問題点について話しておきたい。
章子の語りの生き生きした部分はとてもいいのだが、問題は和子。
彼女は小説の最後、馬車に轢かれて死ぬのだ。
これはいただけない。
時代の制約を考慮するにしても「黒薔薇」のテーマは(個人的な意見)「社会制度vs個人の魂」である。
社会制度側には校長を始めとする教師たちが、個人の魂を孕んだ存在としては章子と和子が、それぞれいる。
「黒薔薇」の魅力はこの敵と味方のそれぞれの思惑が交差し、常に揺れ動くところにある。
しかしそれでは終われない。小説は決着をつける必要がある。
それが和子が「美しい少女」のイメージをまとったまま窒息するように死んでしまうのは、作品に大きなマイナスだと思うのだ。
【(余談)同じく惜しいと思った女性教師と生徒の小説に桜庭一樹の「じごくゆきっ」がある。もう少し長く伸ばして書いてくれたらと思ったものだった。】
章子は決着を付ける必要がある。これは小説の力学としてそうである。
しかし思いつくのは「小さな恋のメロディ」のラストシーンのようなもので、大槻ケンヂに「きっと地獄なんだわ」と―内輪話は切り上げよう。
そしてこの両者の関係はもう一つ問題を抱えている。
これは「美少女」の呪いである。少女は成長するのだ。
もちろん成長してもらっても構わない。構わないが、社会制度―ひいては男性性の年功序列式の制度に立ち向かうのは、やはり少女のイコンが必要である。
個人的に、章子がある信頼できる友人に和子を手渡すという妄想を抱いている。
彼女自身は犯罪者として裁かれるが、彼女は緑の明るい野原ではしゃぐ和子を夢見る。
自身を犠牲に、一つの柔らかな魂を守る。なかなかいいでしょう?
同様に章子の出てくる「鉛筆」という短編も、ささやかな悲しさが端正に描かれていてよかった。
ただ作中では関東大震災が起きているのは明記しておく。
この後の軍国主義の台頭を思うにつけ、章子と和子の柔らかな魂が生きながらえることを強く願ってやまない。
読んでくれると嬉しい。
(余談)なお同性愛を扱う作品として2つおすすめがある。
三島由紀夫「仮面の告白」。散文形式の詩だと割り切って読むと比較的読みやすい。
萩尾望都「残酷な神が支配する」。深く激しい暴力の物語だ。
よければそれぞれ読んでくれると嬉しい。
また、村上春樹の作品でも「スプートニクの恋人」以後同性愛のテーマが継続的に扱われている。
「海辺のカフカ」をピークにやや表層的になったきらいはあるが、その二作品を読むだけでも中後期村上作品の持つ魅力を味わえると思う、よければ。
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