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「TVピープル」感想(加筆)

「TVピープル」は短編集、六編収録。

1「TVピープル」
2「飛行機―あるいは彼にいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか」
3「我らの時代のフォークロア―高度資本主義前史」
4「加納クレタ」
5「ゾンビ」
6「眠り」
一九九八から九年にかけての作品だ。

村上氏にとって(おそらく)暗い時代の作品だろう。氏は八七年「ノルウェイの森」八八年「ダンス・ダンス・ダンス」を出版するも、次の長編は九二年の「国境の南、太陽の西」まで待たねばならない。
一言でいうと、転換期だった。村上春樹ワールドを構成してきた、「やれやれ」「バー」「簡単にセックスできる女性」エトセトラの耐用期限が切れてくる時期だった。モラトリアムの期間を小説で書くのも限界だった。そして、村上氏はこの困難を乗り越え九五年、
「ねじまき鳥クロニクル」を書く。

さて。転換期の作品の常だが、「TVピープル」の作品は「眠り」を除いて、力が弱い。

表題作「TVピープル」は、後に九五年「ねじまき鳥クロニクル」に吸収される作品と見て良いだろう。テレビ、謎めいた電話、雑誌編集者の妻などの共通点を持つ。不気味な小人たち、TVピープルはさらに後の作品の「1Q84」に登場する「リトル・ピープル」を思わせる。
「飛行機(略)」は後に回す。
「我らの時代のフォークロア(略)」は、
村上春樹作品で(「回転木馬のデッド・ヒート」などで)よく見る伝聞形式の小説だ。近著「一人称単数」でも、「品川猿の告白」がこの形式だった。 
「優等生」タイプの人間の、壊れた恋の話。「ノルウェイの森」のキズキ、「ダンス・ダンス・ダンス」の五反田君の系譜に位置するだが、後の村上作品では出てこない。
(強いて挙げれば「女のいない男たち」収録「ドライブ・マイ・カー」の高槻とか)
筆者が考えるに、このタイプの人間にはそれほど豊かな(小説的な意味における)可能性がないからか。
また悪や暴力が主題の九十年代後半〜二〇〇〇年代村上作品では、この小市民的な人々は、被害者役を演じるくらいしか役どころがないせいかもしれない。

「加納クレタ」「ゾンビ」は特に短い。
「加納クレタ」は、そのまま加納クレタ(女性)が主人公。
(姉の加納マルタと共に、後に長編「ねじまき鳥クロニクル」に登場する)
話の要約は難しいが、大まかに
その1 警官が加納クレタを犯そうとする。
その2 加納マルタ(姉)が警官を殺す。
その3 加納クレタの下に警官の幽霊が現れるも、加納クレタは幽霊を性的に挑発する。
その4 加納クレタは火力発電所の建設で大金持ちになるが、緑の目の大男にレイプされ、喉を裂かれる。
と分けられる。

話がリアリズムから大きく逸脱しており、突飛な印象を受ける。ただ、おそらくこうした(悪ふざけのような)ストーリーのなかで加納クレタは確かに性暴力を振るわれ、殺される。加納マルタも警官の首を裂く。それが「加納クレタ」という短編全体に、単なる突飛なストーリー以上の、暗い印象を残す。
突発的な(理由なく振るわれる)暴力というのは、後々「ねじまき鳥クロニクル」でさらに追求されるテーマであり、「加納クレタ」はその準備編と呼べるだろうか。
また、「緑の目」で筆者は氏の「緑色の獣」を連想したが、(おそらく)関係ない(獣は人間の目をしている)。

「ゾンビ」は対話劇のような作品。男女の恋人の男の方が突然女をバカにする。耳のほくろが下品だ、がに股だ、わきがだと。彼女の親まで引き合いに出す。
だが、彼はゾンビだった。彼は肉のずるむけになった手で、女性のブラウスの襟を掴む。

それから、それが女性の見た幻だったと作中で示される。しかし最後の会話で、

「私の耳にひょっとしてほくろがある?」
「ほくろ?」と男は言った。「ひょっとしてそれは、右の耳の中にある品のないみっつのほくろのことかな?」
彼女は目を閉じた。つづいているのだ。

という結末を迎える。

消えない悪夢を扱った小品、という扱いでいいだろうか。

一方、「眠り」は優れた作品だ。何より、作品のところどころに読者が入れる隙間があるのが筆者には嬉しい。

この後の村上作品では、短編作品に一貫した主題が置かれる。並べると、
「神の子どもたちはみな踊る」
阪神淡路大震災。
「東京奇譚集」
家族との不和。
「女のいない男たち」
男たちの孤独。
(ただし近著、「一人称単数」には、ここまで一貫したテーマはないように見える)。
氏の短編作品の質はここから安定するも、同時にかつて短編が担っていた「遊び」性、実験性を失う。特に「東京奇譚集」以降の作品は立派な作品だと感心しつつも、筆者はやや息苦しい。

話が飛んだ。「眠り」は村上氏の短編らしい短編だ。
眠れなくなった女性。そこから彼女は(決して直接的ではない)暴力性と個人性に目を覚ましていく。社会規範の外に出ていく、と言ってもいい。彼女は妻であり母だが、その役割から外れていく。
筆者はこの短編を読むと、いつもチョコレートを食べながらトルストイの「アンナ・カレーニナ」を読みたくなる。また彼の書く女性主人公の物語のなかで一番好きな作品かもしれない。
(カット・メンシック氏のイラスト付き「ねむり」も雰囲気があってよかった)

ここからは本筋と関係ない話で、飛ばしていい。
筆者はかつて、人間の悪に心を惹かれた。興味があった。アウシュビッツ、ノモンハン、東南アジアの性奴隷/慰安婦などについて調べた。
とにかく、「悪」について筆者は調べた。
そのとき、この「眠り」がとても好きだった。彼女がいつまでも眠れないまま、どこかとても暗い場所までたどり着けばいいのに、と思っていた。こういう「読者に委ねてくれる」部分は、後の村上作品では消えていく。

そのとき悪について学ぶため、筆者は哲学書も読んだ。キルケゴールやニーチェを。
そのとき思った―カントが出てくると、つまらない。

というのはカントは、
「人間の良心は『〜すべきである』という定言命法(命令でいいよねえ)をもって働きかける」
という道徳の教科書的思想を持っており、そこで「悪」というのは「善」の落ちこぼれみたいな扱いだから(※筆者の意見)。 
大体西洋の哲学者連中が語る「悪」は、「善」と「神」にスポットライトを当てるための影にして黒子であって、書き方がしょぼい。
だから、筆者はカントが出てくると、「げ、またカント」と思っていた。カントは、あかんど。

話を続ける。村上氏も「海辺のカフカ」あたりから、人間の持つ「悪」を、あくまでもろくでなしのゴクツブシ野郎、カント先生に右ならえのように書くようになった。そこから筆者は村上作品が読めなくなった、読んだけども。
筆者は人間の悪が好きだ。
「金閣寺」の溝口、「野火」の田村一等兵、「悪霊」のスタヴローギン。「悪」を抱えた人間は、何故かみんな美しい(その滑稽ささえ)。人間の「無意識」や「悪」を、闘うもの、倒すもの、ろくでもないものというカテゴリーに押し込めるようになってから、村上氏の作品はその幅を狭くしたように筆者は思う。

ヘミングウェイの長編の消費期限が早々に切れた(「ニック・アダムス」シリーズは好きだが)こと、谷崎潤一郎は残ったのに白樺派が残らない(ほぼ同年代)ことなど鑑みるに、「小説」というジャンルは、つくづく「闘い」、あるいは、「理想」(のために「現実」と闘うこと)と相性が悪い。

筆者は夢見てしまう。村上氏がこんな狭い道徳規範に体を埋めず、ドストエフスキー(三島由紀夫でも)の墓石を土足で踏みつけ裂けた口で、「お前らその程度か!」と笑い、この世のあらゆる「悪」と「無意識」を、おもちゃ箱から新しいおもちゃを取り出す子どものようにばらまいたなら。小説家というのは、多少無責任なくらいがいいのだ。最近の村上氏の言うこと、書くことは、正しいのだが、息苦しい。「悪」とは、闘わなければいけないのか?本当に?そんなに世界に「善」を溢れさせて、どうするというのだ。

村上春樹「飛行機(略)」について。それほど複雑な話ではない。青年がいて、不倫をしている。青年二十歳、不倫相手二十七歳。青年は気づかないうちに「飛行機の詩」らしきものを口ずさんでいて、不倫相手の女性に指摘される。以下はその詩(らしきもの)。

飛行機
飛行機が飛んで
僕は、飛行機に
飛行機は
飛んで
だけど、飛んだとしても
飛行機が
空か

この作品は出来が良いとは言えない。「眠り」ほど強い力もない。中期作品の持つ悪と暴力の追求性もなければ、初期村上作品のユーモアとリリシズムもない。

だが、筆者は今では「TVピープル」のなかで、この「飛行機」が一番好きだ。どうしてかと問われると難しいが。

ここから余談。あらすじが知りたい読者は帰ってオッケー。

まず、この作品はもう少し続きが書けそうな気がする、が、たぶん書けない。
筆者も色々考えた。考えたのだが(不倫相手の娘を書いたらどうだろう、モラリスティックな友人を出して同氏の「ファミリー・アフェア」姉妹編みたいにするのはどうか)、無理だ。

この小説には「没落」の気配が漂っている。
たとえば、大作「ねじまき鳥クロニクル」は、アッパーな小説だ。「るろうに剣心」なら志々雄真実のタイプ。なら、「飛行機」は雪代縁のタイプだ(読んだことない人ごめん)。
なんというか、「飛行機」はこの先におそらく何にもないことが、読者である私にも薄々予感されるのだ。
たぶん、この二十歳の青年は七歳年上の不倫相手と、就職か、もっと別の理由かで関係を断つだろう。その後はもう、彼の飛行機のひとりごとに気づいてくれる人間もいなくなるだろう。そうして、一つずつ全て終わっていく(筆者はジョン・チーヴァーの「泳ぐ男」(追記「泳ぐ人」だった、申し訳ない)を連想する)。

その、「終わり」の気配は、中後期村上作品ではなくなる。人が生きることを、氏は肯定していく方向に向かうから。
だが、私はこの、どこにも行けない「飛行機」と、青年を愛する。生のなか、どうしようもなく行き詰まった青年の物語を。
もし同じ興味の方がいたら、氏の「国境の南、太陽の西」をおすすめする。

ウンチクだがドン・デリーロの「天地創造」(「天使エスメラルダ」収録)も飛行機(というか飛行場)の話だった。雰囲気が村上氏と割と似ていたような。氏の友人、柴田元幸氏が短編のうち3作を訳している、良ければ。
あと、バリー・ユアグロー「一人の男が飛行機から飛び降りる」も(筆者も読んだことがない、今度読んでみる)。

(追記)「TVピープル」の各作品の文章は、なんというか平たい。前期のユーモアやリリシズムがかなり消えている一方、中期の、心の奥底を覗くとき生まれる読み応えもない。引用が少ないのは、文章に力がある作品ではない(と筆者は思った)からでもある。おそらく作風転換期の、準備の文体と呼ぶべきなのだろう。







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