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思考の変化 エンタメ→社会課題解決

最近自分の中に思考の変化があったような気がしてそれを記しておきたい。

かつてのエンタメへの執着

元々エンタメという領域に興味があった。

人々の日常を少しでもハッピーにしてくれるエンタメの力に惹かれていた。人々の不幸の元となる問題の解決はしてくれずある種の一時的な処方薬的な役割ではあるが、一時的にもその辛み苦しみを忘れさせてくれるエンタメは素晴らしいと思う。

さらに自分は社会課題の解決というものは非常に難しいものであると思っていた。ある社会課題を解決しようとすると、また別の社会課題が生じたりと、社会課題というのは社会と複雑に絡み合ったような問題なので、ある一つの課題を解決すれば良いというものではなく、もっと広い視野で課題を解決していかないといけない。

そして社会課題一つを取り上げても、その解決が本当に正しいことなのかさえも実際わからない。環境問題は解決するのが正しいというのが一般論とされている中、それによって消費者の生活水準を落とすことを推奨したり科学技術の発達を抑制したりすることへの反対の意見もある。

つまり、社会課題の解決には以下の難しさがある。

  • 解決が難しい

  • 解決できたとしても、その解決がある人にとっては新たな課題の発現となっている

一方、エンタメでは問題の解決をしておらず、上記のような難しさはない。

自分の中で生じた変化

自分の中でエンタメに対する気持ちの変化があった。

エンタメ業界はこれ以上何かをする必要があるのだろうか?

皆さんの周りを見てほしい。

あらゆるエンタメコンテンツが日常の中に溢れている。

一昔前だと、余暇の過ごし方といえば、本を読んだり、友達とスポーツをしたりするぐらいだっただろう。

しかしインターネットが民主化されたことで、デジタルエンタメコンテンツがインターネットの世界に溢れかえっている。YoutubeやTikTokのようなプラットフォームでは誰でもコンテンツを投稿することができるようになり、コンテンツの多様さも増している。

つまりコンテンツは十分楽しめるものがすでに取り揃えられているのだ

さらにここで出てくる問いとしては、"これ以上エンタメのクオリティを上げる必要があるだろうか?"というものだ。

エンタメというものが単に好きであれば、そこに特に疑問を感じず、エンタメのクオリティを追い求めるのだろう。

しかしここで疑問を感じ、エンタメをやる意味というものを考えるというのは、自分自身何か社会や世の中、引いては自分以外の誰かの意味になるようなことをしたいという気持ちが強いからだろう。

新たな気持ち

社会のために何かしたい。誰かのために何かをしたい

こういう気持ちが自分の中に芽生えるようになった。

このような気持ちが生じる原因となったのは、恐らくフロムの「愛するということ」という本を読んだことだろう。(自分の記事ではたびたび出てくるだろう)。

この本で言っている、「人に対して何かを与えることそのことに対して豊かさを感じることの素晴らしさ」を身に沁みて感じた。

自分もそのように他人に対して、giveをしてその行為自体に対して自身で豊かさを感じることができるような人間となりたい。そう思えた。

これを実践するためには、社会問題の解決と向き合う必要があると思う。人々が抱える苦悩に対して本質的な解決をすることこそが、社会のためになるのだと思う。

解決が難しくてもそれに対して対処しようとし続ける(これは孔子が周りに反対され続けても人々を苦悩から解放しようと行動し続けたことからもその豊かさがわかる)。そして、何か新たな問題が生じる可能性があるとしても今苦しむ人を助けることに意味がある。

何をしたいのか

社会課題の解決といっても、世の中には無限の数の社会問題がある。

その中で自分はどんな社会問題を人生を賭けて解決したいのか

この問いをこれからは考えていこうと思う。

現状、縁あってヘルスケアのスタートアップの方と話す機会があり、ヘルスケア業界に興味が湧いている。

他の業界も注視しつつやりたいことを考えていこうと思う。

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