『ソウルの春』/いや、それは確かに事実なんだが、…問題(映画感想文)
映画『ソウルの春』(24)は、79年に韓国で実際に起こった朴正煕大統領暗殺事件の直後から始まる。『KCIA南山の部長たち』(20)が描いた事件の、そのつづきになっている。
『KCIA』でイ・ビョンホンが演じた情報部部長は、映画の最後に軍へとむかう選択をするが、それはモデルとなった金載圭中央情報部部長が国軍保安司令部に逮捕された事実に基づいている。
絶対権力者として長らく君臨していた朴正煕大統領は、韓国の経済成長に大きく貢献するも、自身に都合の悪い相手には非情な手段や非合法的かつ暴力的な措置を講じ弾圧や粛清を行っていた。この大統領に委ねたままでは国が亡びる、との想いから行動を起こす情報部部長の姿を『KCIA』は描いたわけだが、暗殺という決着のつけ方の是非はさておき、そうせざるを得ない、と考えた胸中は理解できる(明言しておくが民主国家において暗殺という方法は断じて許されない。思うことと実際に行うこととは別の問題だ。だが人間であれば誰しも内面に理性以外の思考が割り込む余地はある)。
圧制からの解放を願いクーデターを起こし、ようやく勝ち得た民主主義だと思ったのも束の間、そこでリーダーとなった人物があたかもミイラ取りがミイラになるかのごとく、それが権力を手に入れた人間の当然の姿であるかのように、またしても権力に飲み込まれ新たな暴君として君臨するようになる。それほどまでに他人を支配するということは魅力的なのだろうか。人が、心を失うほどに。信頼する仲間と掲げた理想を破棄しつつ何も感じなくなるほどに。
そうして朴正煕は、歴史が繰り返すがごとく(大規模クーデターと個人による暗殺という違いはあれ)倒され、民衆は再び、歪んだ王の退場に因る民主化に喜んだ、…。というのがいわゆる史実としての「ソウルの春」だ。具体的な時期は79年10月から、80年の5月まで。
だがこの「ソウルの春」も、全斗煥や盧泰愚を中心とする新軍部により終焉する。
朴正熙の亡きあと崔圭夏が大統領に就任したが、軍と距離のある文民ゆえ軍を掌握することができずイニシアティブが発揮できなかった。そのことがより軍の反発を呼び助長を招くのだが、国家が成熟していれば、民主主義が根付いていれば、新たなクーデターは起こらなかった筈だ。
この崔圭夏就任中に、全斗煥や盧泰愚らが軍事クーデターを起こし再び韓国は軍が支配する国となる。彼らは朴前大統領の元で結束を固め忠誠を誓い合った秘密の朴政権親衛組織「ハナ会」のメンバーだ。
この「ハナ会」、特に全斗煥をモデルとするチョン・ドゥグアン率いる軍組織の野望と、その軍部の独裁を阻止せんとする首都警備司令官イ・テシンの攻防を映画『ソウルの春』は描いている。チョンを演じるのがファン・ジョンミン。イを演じるのはチョン・ウソン。
映画は、展開もスピーディで、先の大統領暗殺、実行犯の情報部部長逮捕、そこからチョウが暗躍を始めるまでを一気に描く。いやそれだけでなく軍部が台頭し、画策が実際に動き出し、そして雌雄を決する一夜の攻防まで。チョンの周りにいる「ハナ会」のOBや同僚軍人たちのなかには腰抜けが多いが、彼らが慌てふためき撤退を提言しながらも、チョウの執念で軍事クーデターが成功するまでを映画は描き切る。
そう、この映画は悪者が勝つのだ。なぜなら、それが韓国の歴史において紛うことなき事実だから。
率いる男の熱情、それに抗う男の真摯さ、裏切りや奸計が「これでもか」と描かれるパワフルな大作で、監督は『アシュラ』(16)のキム・ソンス。『アシュラ』は僕が韓国映画にドはまりするきっかけとなった瞠目モノの一本なのだが、そこで手段を選ぶことなく街を支配する悪徳市長を演じていたのがファン・ジョンミン。その暴君にコマのように使われ翻弄され、破滅しつつも牙を剥く刑事を演じていたのが、チョン・ウソン。…そう、この『ソウルの春』は現実を下敷きにしながら『アシュラ』の卑劣な悪とその悪に立ち向かう筋の通った悪の対立構造の再現にもなっている(『ソウルの春』のイ首都警備司令官は悪ではないが、…)。
僕にとってはその意味でも、待望の一作なのだった。が。
実際の出来事をモデルとした首都を舞台とする攻防はのなかで、腰抜けの取り巻きの躊躇によってチョンが後退することもあれば、日和見で決断力のない上官たちのくだらない楽観的観測でイが撤退を余儀なくされることもある。映画のなかで気概を見せるのはこの二人の男だけだ(軍部の大半の反対を押し切りイを任命した陸軍参謀総長と、最後までクーデターに屈しなかった崔圭夏をモデルとする大統領もか。彼らは素晴らしかった)。
そのぶつかり合いは激しい。
だが、よくよく考えてみれば、そこで行われているのはただの空しい綱引きの繰り返しではないか。そう、はたと思ってしまった。「自分はいったい何をみせられているのだろうか」と。
韓国国民にとっては、これまで描かれることのなかった史実の暗部に光が照射され、あのとき誰が悪者だったのか、民主化を後退させたのか、国として本当に成熟していたといえるのか、の問いが突き付けられる大変価値のある一本だろう。
だが、こんな定義付けを求めるのはあるいはナンセンスなのかもしれないが、やはり一映画ファンとして、これは映画として成り立っているのだろうか、と思ってしまったというのが正直なところだ。
観ている間はおもしろい。アクションを中心とするエンターティメント作品としては悪くない。だが、この顛末のなかで誰ひとり成長も精神的な変化もないというのはどうなのか?
映画に限らず語られる物語のなかでは、最初から終わりへの間で、なにかが変わる(成長する)というのは僕だけの妄信に過ぎないのか。
精神性として変わらなくともいいのだ。たとえば、「悪事を挫く」であっても。それはひとつの戦いであり獲得なのだから、達成感がある。だが、ご存じのようにこの軍事クーデターは成功し、われわれが正義の行使者として信じていたイは敗北する。それこそがドライでダークな韓国という国の真実? それはそうかもしれない。だが、とやはり思わずにはいられないのはこれが「映画」であるからだ。
終盤でチョンとイの二人が対峙する場面がある。劇中でほぼ唯一のフィクションだというこの場面でわれわれは何を感じればいいのか。正義を貫こうとして果たせなかった男の無力? 国の民度が個ではなくもっと大きく成熟しないと民主主義は危うくなる、という教訓を得ることはできても、観終わって数日してからの気分はやはり暗澹としたものでしかない。作劇上の制限がたとえあれ、内面のエモーショナルな部分や葛藤をどうにか描きようがなかったのか。そうすることで厚みを観たものに感じさせることができた筈だ、…というのは一ファンの勝手な希望です。