グノーシス的二元論の考察
グノーシス系の諸派が二元論だというのは、普段、僕が人間の脳の二元論的認識構造と言っているときの二元論とは言葉の使い方が違う。
グノーシスでは、まずその人間の脳の認識構造を超えた世界を(1)とする。その(1)は完全に純粋な世界だ。永遠の今ここ、東洋でいえば涅槃のようなものだ。
そのような世界が「ある」とする世界観、修行によりそこに還ることができるという世界観はある意味「東洋的な」世界観なのである。いや東だ西だと場所を限る必要などないとしたら、「神秘主義的な」世界観なのである。
この現世は(1)とは別のものからできている(2)だ。汚れた堕落した世界(2)なのだ。
そんな世界を造物したのは、(1)の完全に純粋な神とは別の造物主としての神という場合もある。
またはもっと極端に世界を作ったのはサタンだという場合もある。
いずれにしろ、この(1)は普段は非二元的な無碍なる世界と僕が呼んでいるものだ。その世界と、汚れた現実世界の二つを数えて、グノーシス諸派では二元論というのである。
そのふたつに善と悪という言葉を用いるととてもややこしくなる。実際にはそれは、善悪の彼岸と、善や悪のある不完全な世界(=悪世界)の二元論なのだから。
神秘主義的なグノーシス諸派が、国教化したキリスト教から弾圧されるのは、世俗的権力を認めず、その彼方の純粋世界を個々の修行や信仰によって獲得しようとするからです。
国王の権威よりもその純粋世界が為本だからです。それが何ものにも侵されない超越的なものだからです。
祭祀権を収奪し、世俗諦の中にしかない司祭が死体としての宗教的領域をコントロールしたいのが、国家宗教です。
なのに、「異端派」は、勝手にそれを超えた世界を経験する。
「正統派」の司祭にはそのような能力もなく、行もせず、真の信仰もない。だから、そのような者たちを恐れ、ノイズとして弾圧したり、魔女として虐殺したりするのです。
生きた超越性宗教を弾圧するとは、そのような一種シャーマニックな個的な変性意識体験を弾圧し、祭祀権を国家が奪いとるということなので、シャーマニズムの弾圧と同じ意味合いがあるのです。
(メモ終わり)
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