「弥陀仏は自然のやうをしらせん料(りょう)なり」
無上仏と申すは、かたちもなくまします。
かたちもましまさぬゆゑに、自然(じねん)とは申すなり。
かたちましますとしめすときには、無上涅槃(むじょうねはん)とは申さず。
かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すぞ、ききならひて候ふ。
弥陀仏は自然のやうをしらせん料(りょう)なり。
この道理をこころえつるのちには、
この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。
(末燈抄)
阿弥陀仏を人格神的にとらえるという古い時代にしか通用しなかった誤謬を避けるためには、
晩年の親鸞自身の著した「末燈抄」のこの部分はひとつの要(かなめ)である。
この
弥陀仏は自然のやうをしらせん料(りょう)なり。
という文の、中でも主に「料」を巡っての考察を私の古いブログ記事から再掲しておこう。
「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」の「料」の訳について。
多くの真宗僧侶や学者は、この「料」という見慣れない用法の言葉を「ため」「手立て」「方便」などと訳している。
一方、「料」の意味を辞書で引くと、「ため」と書いてあるものはあるが、「手立て」「方便」と書いてあるものは見つけられない。
「ため」はなんとなく言葉不足で「ための~~」であるという「~~」が欲しいところである。「~~」に「方便」「手立て」を入れるとうまく当てはまる。
「ための方便・手立て」である。で、意味がすんなり通る。
が、その意味が辞書にないことが悩みであった。
また方便という言葉は、仏教では盛んに用いられるのに、ここではそれを使わず「料」と親鸞は言ったのであるから、それを「方便」に戻してしまうのは、せっかく「料」を用いた意図を損ねる気もしていた。
と、ある人に言うと、その人は「ネタという意味じゃないの?」と言った。
「料理の料はネタという意味だ」と言うのだ。
「それって小説のネタと同じ意味のネタだよね。たねをひっくり返してつくった現代語だよね」
「そう、漫才のネタもそうだし」
それで改めていろいろな辞書を引くと、漢字ペディアには
料の意味としてこうあった。
①はかる。おしはかる。「料簡」「思料」
②もとになるもの。使うためのもの。たね。「衣料」「資料」
③てあて。代金。「料金」「給料」
②に「たね」という意味が見つかった。
この場合の「たね」は現代語の定着済みのスラング「ネタ」とほぼ同意である。
僕としては深く納得した。
よって、この「料」は「ネタ」と訳すのが最適だと思う。
これまでの真宗の歴史になかったことかもしれないが、親鸞が「料」と言った意に沿うことにおいて、「ための方便」というよりすぐれていると思う。
よってこの部分の、私訳はこうなる。
限りなき働き(阿弥陀仏)というのは、
宇宙の無限の願いによって
自ずからそうなっていく様子を表現しようとしたネタなのです。
阿弥陀仏はそのままでは固有名詞のように聞こえ、神格化しやすいので、僕は必ず無量の智慧と命というサンスクリット語の原意に戻って「限りなき働き」と訳すほうがいいと考えている。
しかし、ネタとはっきり自覚しているなら阿弥陀仏という言葉を用いても別にかまわない。
ただし、できれば、阿弥陀仏という言葉を用いるのは「ネタである」と言っているこの部分だけにした方がいいだろう。
他はすべて「限りなき働き」と意を訳した方がいいだろう。
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