宇宙曼陀羅
昨日はサイコシンセシスの曼陀羅ワークにZOOMで参加した。
僕にとって瞑想もワークもいつの頃からか修行法ではなく、この世の様々なる意匠に遊ぶということでしかない。
これから、解放に向かって修行していこうというのではなく、宇宙の中心が自分の中心というところからわざと地上に降りて煩悩林に遊ぶファンタジーである。
昨日は岩崎さんの誘導で前に苗字のカード、背後に名前のカード、左右に自分の好みのシンボルのカードを置いた。
そのあと、前にどんな花が見えるかイメージしてみてと言われた。
一面の蓮華畑だった。
右にどんな花が見えるか。
赤白黄色のチューリップだった。
左にどんな花が見えるか。
背の高い向日葵の群生だった。
後ろにどんな花が見えるか。
桜の樹に満開の桜である。
前方の彼方にどんな樹が見えるか。
大きな木陰を作っているバオバブの樹である。
木々の間からどんなものが飛んでくるか。
一本しかなかったので幹をまわって飛んできたのは無数の極彩色の蝶だった。
前方遥か彼方に何が見えるか。
短い黄土色の草の平原は遥か彼方まで続いていてあえていうならそのまま碧空に尽きる。
空にジェット機が飛んでいるのをイメージして。
その機内から自分を見下ろして。
結跏趺坐している自分の頭が見えた。
ここまで来て参加者ひとりひとりに自分は何を浮かべたかを聴いていき、それを自分の曼陀羅の右前や左前、右後ろ左後ろなどに加えていこうとしたが、人の話はイメージを結びにくいし、すぐ忘れるし、絵の具が溶けて流れてウルトラQである。
結局、この曼陀羅ワークにどのような意味があるのか、よくわからないでいた。
参加者は昨日今日瞑想やワークを始めた学生などと違って(岩崎さんがふだん相手にしている美大生らとは違って)瞑想オタクの人生の晩年期だったりするので、感想のシェアや学問的な曼陀羅の検討などの話も尽きず、まだまだ用意されていた次のワークへと進んでいかず、2時間の枠はあっという間だった。
おもしろかったのは、数々の瞑想を経験してきたAさんが、これは瞑想というよりかなり日常的な次元に近いところでの観想ではないかというようなことを言っておられたことだ。
僕もそうだと思う。瞑想したあとにイメージを喚起したわけではないので、変性意識ではなく、日常的なイメージワーク。
ただそんなAさんが、あびさんのシェアしたヴィジョンはエネルギーが強すぎて、気持ちが悪くなるほど強烈だったと言っていた。
幹の周囲を回って飛んでくる無数の極彩色の蝶などがそれにあたるらしい。
確かに僕は目を閉じたその瞬間に変性意識に入っているので、それは深層から飛んでくる。
あと、いろいろ質問する中、「イメージを浮かべる方向というのはふだん意識する人が少ないので、殆どの人が目のある前方にだけイメージを浮かべる。だから4つのカードを前後左右においてもらった」という説明があった。
そこで僕が思ったのは、前後左右に加え上空にもイメージを浮かべ、上空から自分を見下ろすこともしたが、下がなかったのではないかということ。
下がありませんでしたねと言うと、植木屋さん相手などのワークで下も取り入れ根が張っている様子などイメージしてもらったことはあるということだった。
僕に生じた違和感は他の人とかなり違うと思うので、自分の特色が浮き彫りになっていった。
僕には下が地面というイメージは希薄だ。別のヨーガの先生をしている女性が、地球の中心の重心に根付いているというのが下のイメージでしょうと説明してくださったのはよくわかった。
だからそこから浮くとグラウンディングしたくなるという説明もわかった。
しかし、僕には下は重力を感じる方向という感覚も、暗い土中だ、根付くべき場所というイメージも希薄だということが他者と比べてわかった。
僕は目を閉じた瞬間に、尽十方に無碍なる光だけが染み渡る宇宙の中心にいる。
その宇宙の中心が自分の中心なので、前後左右上下はどこから見るかによって仮に名付けるものであって、実はどっちでも同じことだ。
結跏趺坐の人物像を自分としてイメージすると、足を組んでいる方向が下、頭上が上ということになるが、球体として自分をイメージすると上下左右前後などはあって無きがごときもの。
方向性だけが残るだけで、そこに曼陀羅もいらない。
尽十方無碍光は清浄を唯一のしつらえとする。
そこに曼陀羅はない。
あるとしたら、わざとイメージの世界に下降していくという煩悩林の遊びとしてである。
それは完全に自由な遊びであり、ワークはそれに一定の方向性を与えるモチーフのようなものだ。
いつでもどこでもその遊びは始められて、ルールはすべて自分で決める。
地球という星の上にいるというイメージも自分で決定した、意志を意志した選択なのだ。
もうひとつ思索のヒントがあった。
右は百合だなと思ったのは考えたのではないかと思う。百合の花が浮かんだわけではないからと言った人がいた。
僕がそれに対して言ったのは、百合という言葉がなぜ浮かんだのかは、百合の花のイメージが浮かんだのと同じくらい理由がない。
言葉で浮かんだときは、深層からではなく、理性が思考したと整理しがちだが、なぜその言葉を思考したかは、未知の彼方から来たというしかない。
だからイメージが浮かんだ場合と同じではないか。
まとめると一切は空であり、無碍なる光が尽十方に染み渡る自由なキャンパスである。
宇宙の中心は自分の中心と同じで、そこからどの方向にどんなイメージを投影するかはまったくの自由だが、選択しているともいえ、選択をこえて廻向されているともいえる。
それがこの宇宙曼陀羅という創造性の遊びである。
今から宇宙的に覚醒するための修行ではない。
宇宙の覚醒から廻向されてくる創造性の遊びである。
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