英語支配について

前に書いたものが出てきたので、貼っておきます。
この件について、僕はこんなに穏健だったかな???

英語支配について

すでに一九七〇年代半ばのダグラス・ラミスの「イデオロギーとしての英会話」は、日本における英語支配について、その核心をつく論議を展開していた。
そこでは、アメリカ人には、自らの文化や言語を普遍的なものだと思いこむ根深い侵略主義的思考様式があるという指摘が実にアメリカ人自身によってなされているのである。 
私自身、三年間アメリカで暮したが、アメリカ人が、ダグラスのいう思考様式にいかに毒されているかは、しばしば痛感した。卑近な例をあげよう。テレビを見ていると、地球の地底にあったもう一つの世界に旅するSF映画で、猿人にも似た地下世界人に会った主人公は、「Do you speak English?」と尋ねる。見ていると、「言葉が話せるのか?」という意味あいで尋ねているのが、よくわかる。しかも、自分ではその滑稽さに気がついていないようだ。おそらく別の惑星ですら、宇宙人にそう尋ねるのであろう。
一九九〇年発行の津田幸男氏の『英語支配の構造』(第三書館)は、世界は英語に支配されており、特に旧植民地等の国々は、白人意識を持った一部の英語エリートに支配されているという構造を論じている。同氏は言う。「世界史を少しでも勉強した人ならすぐわかることだが、英語は、イギリスの植民地支配、資本主義の発達、そしてアメリカの帝国主義的膨張の結果、世界に広がったのである。そして、支配者である英語民族は、自分達の言語を押し付け、非英語民族は、コミュニケーションを成立させるため、支配者の言語を学ばざるを得ない立場に置かれるという支配構造が出来上がってしまったのである。」
小田実氏は「その国の独立の程度が高ければ高い程、かつての支配者の言葉が下手になるという印象」を述べているが、ひとつの観点としては興味深い。そう考えると日本人の英語ベタは、積極的な意味で捉え直すことも可能である。つまり、日本人が比較的英語がヘタなのは、アジアのほかの国々よりは、欧米からの独立の度合いが高く、独自の経済圏、文化圏を築いているからだという見方も可能だということだ。しかし、昨今は、日本でも英語教育、ことに愚劣な英会話教育に力をいれ、「英会話」のうまい(?)日本人も増えている。見方によっては、これは対米依存が深まっている証でもあるわけである。
また津田幸男氏は、日本人の英語コンプレックスに関しても具体的に分析している。 
たとえば、日本人は英語圏で道を尋ねるとき英語で尋ねなければならないと思っているが、日本国内で外国人と話す時にも英語で話さなければならないと条件反射的に考える。
日本の史学会は、外国の研究者にも理解をはかるため、もっと英語で論文を書くべきだという考え方を示した。(日本史を研究するなら、外国の学者の方こそ、日本語を勉強するべきではないか!)
このような例は枚挙に暇がない。世界中の航空機が管制塔とのやり取りを英語でする事が義務づけられているという例に至っては、開いた口がふさがらない。日本人の飛行士と日本の管制塔が、英語でやり取りする様子は滑稽を通りすぎて、(特に緊急時など)安全面からも重大な問題がある。
ところで、今、文部省は以前にも増して、英語(とインターネット)を教育の中で重視していこうとしている。確かにそれは経済的に重要な国際戦略の一環であろう。だが、日本にとって、それは、相手の土俵に乗っていくことであり、自らには不利な面もある。ところが、そのことを承知の上でなお、そうしなければ、国際競争に打ち勝てないという、現実主義的な判断があるわけであろう。
また、政府はその一方で、国旗国歌問題にも見られるように、国家のアイデンティティを強化しようとしている。
つまり、こういうことだ。ペリー・ショック以来(あるいは明治の文部大臣森有礼が英語を国語にする提案をして以来と言おうか)日本の教育戦略は「和魂洋才」という基本路線を一〇〇年以上に渡って踏襲し続けている。最初の強烈な欧米コンプレックスの形成以来、とどのつまり、何も変っていないのである。いや、第二次大戦の敗戦は、そのコンプレックスをさらに決定的で致命的なものにしたと言おうか。
しかし、そうやって、アメリカの尻馬に乗って、走り続けるだけで本当にいいのだろうか。人類文化全体についての長期的ヴィジョンは、持たなくてもいいものであろうか。
1993年のJ・ダイアモンドの試算によると、現在6000を超えると言われる世界の言語の90パーセントが、現在死滅の道を辿っており、21世紀中には二〇〇ほどの言語を残し、あとはすべて淘汰されてしまうという。軍事的、経済的に有利な言語だけが残るという意味ではまさしく淘汰である。
桃山学院大学の山本雅代は、この論文を引いて「母語の保証」はすべての人の基本的権利でなければならないと提唱している。
一つの言語が死滅するという事は、ひとつの観念の体系、文化、ひとつの世界が、滅びるということである。軍事的、経済的な有利性だけを追求して、文化の多様性を失うままにしてよいのかどうか。
少なくとも「英語を学ぼう」の大合唱には、もっともっと疑問を覚えてもよいように僕は思う。

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長澤靖浩
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