今さらだけど、クリスマスについての誤解に言及
「クリスマスはクリスチャンがまじめに宗教的な動機で過ごす日だし、クリスチャンでない者の商業主義イベントを批判するべきだ。」
という立場に立つクリスチャンですら、クリスマスについて色々と誤解しているケースはある。 それは、クリスマスをイエスの生まれた日、イブをその前夜と考える誤解だ。
百歩譲っても、クリスマスは、イエスの誕生日ではない。
イエスの生誕について祝うために設定された日であって、それをもっと古層の伝統から冬至に設定しただけだ。
まあ、そこまでは知っている人は時々いる。
しかし、イブは生誕日として設定された日の前夜というのも、もともと正確ではない。
古来の習慣では、日没から日没までを一日と考える。
だから、クリスマスイブとクリスマスは同じクリスマスという一日だ。
そのうえで、最初に書いたまじめな宗教的動機のことなんだけど、
「すべての人間の罪を、特にこのようにどうしようもない私の罪をも救うためにイエスが誕生したことを祝い感謝する日」と考えるのも、キリスト教の根本かどうかは、怪しい。
イエスは十字架にかかってすべての人の罪を贖罪したというパウロの考えは、確かに今でこそキリスト教の主流となっているといえるかもしれない。
そこから見るとそのためにイエスが生まれたことを祝う日を冬至に設定したのがクリスマスというのは、ひとつの解釈としては成立する。
が、それはキリスト教がローマ国教化して、今、新約聖書と呼ばれているものを正統として確定し、教義がある程度固定化して以降の解釈だと言えるだろう。
それまでに異端とされ顧みられなくなった外典があるという書物を僕は高校生のときに読んだ。
それらの教えは、十字架上の贖罪を強調するよりも、ジーザスの若かりし頃、東洋で瞑想修行を積んだ時代の記述に満ちていると書いてあった。
中でもトマスによる福音書はヒッピーの間で大変人気があると知った。
だが、いたいけな高校生のとき、そのことを教会で言うと、そんなものはないと一蹴されたのであった。(-_-;)
のちにキリスト教の歴史をもうちょっと調べたが、教義が確定されるまでに、数々の異端、グノーシス派、モンタヌス派、マニ教派、カタリ派、ヴァルドー派、フランチェスコ派、自由心霊派、共同生活兄弟会などが、暴力的な激しい弾圧(ライオンに襲わせて殺すとかは序の口)を受けた。
(弾圧された異端各派の名称は、暗記していないので『魂の螺旋ダンス』をカンニングした。)
僕自身の考えでは、十字架上のイエスの死によってすべての罪が贖われたと信じることは、キリスト教のエッセンスではない。
もっとも弱い立場に社会的に追いやられたものに神を見て、その傍らに立つことが神の権威に従うことであり、そのように視点を移動する(メタノイア)が「悔い改め」と呼ばれる信仰成立の瞬間だ。
十字架の上のイエスの死による贖罪を信じることを中心に持ってくるのは、ひとつの解釈が国教化して幅を利かせるようになったものにすぎない。
したがってそのような存在としてのイエスの誕生を祝うのがクリスマスというのは、僕には受け入れがたい。
そもそもキリスト教においては、自称正統派においても、クリスマスよりは復活祭がもっと重要な要素であるはずだ。
クリスマスを一年で最も重視するのは、自称正統派キリスト教徒の教義から見てもかなりおかしなことではないかと思う。
とりあえず、以上はメモしておきたい。