オウム真理教論

今日は地下鉄サリン事件の日ということで、他の方のページでもいくつか話題になっているところがあった。
中に、当時殆どの宗教学者が麻原を賞賛していたという話をしているページがあった。
僕は浄土真宗僧侶小森龍邦のことを忘れているのではないかと思ったので、彼はサリン事件より前に麻原を思想的に批判していたということを書き込みました。また、思想は体験の強烈さに目を眩まさず、言説の次元できちんと分析することも大事だということについて書き込みした。
ここにも該当コメントを、転載しておきます。

(1)地下鉄サリン事件より前に麻原晃彰を公に思想的に批判した宗教者のひとりは、浄土真宗の僧侶で当時部落解放同盟の書記長であった小森龍邦です。
その記録は雑誌「現代」1992年2月号「激突 部落解放同盟VSオウム真理教」をごらんください。このときの司会は島田裕巳でした。

(2)クンダリニー・ヨーガは、ひとつのサイコテクノロジーとして、インドでは当たり前でありふれたものです。クンダリニーの上昇やチャクラの開花、たとえそれがサハスラーラチャクラの開花であれ、そんな体験を何度したところで、それは六道輪廻の天に過ぎないと僕は思います。
ブッダは当時インドのヨーガで可能なあらゆる変性意識を体験してもそれでは満足せず、苦行をやめて乳粥を飲み、菩提樹の下にただ座っているときに悟りを得ました。そしてその言語化は不可能であると考えるも、梵天の勧めによって思い直し、言語化に挑戦しました。
僕の考えでは、思想は体験の強烈さなどに目を眩ませるのではなく、言葉をテキストとしてきちんと読むことをおざなりにしてはいけないものです。
その意味で、多くの宗教学者が麻原を批判しなかったときの誤りは彼の言説をテキストとして厳密に分析しなかったことにあると思います。

(3)私の『魂の螺旋ダンス』は、事件より後に書いたものですが、麻原の言説をテキストとして分析して、たとえば『ヴァジラヤーナコース 教学システム』の中の麻原の言説にその思想的逸脱を観察しました。

(以下引用)

クンダリニー・ヨーガはその中でも最も強力なテクニックであった。またそこには、エネルギーのポテンシャルの高いグルが、弟子のクンダリニーと共鳴現象を起こし、その目覚めを促すシャクティパットのテクニックも加わった。そのため、通常のヨーガでは何年もの修行を必要とするエネルギーの目覚めを極めて短時間で達成することも可能となった。
このようにして目覚めたエネルギーは、心身のトラウマやブロックといったものを焼きつくす。最初のうち、そのエネルギーの働きは燃えるような熱さとして感じられる。だが、それはエネルギーそのものの熱さというよりも、燃えていく業(カルマ)の熱さである。主なブロックが焼き尽くされると、エネルギーは今度はさわやかな風のようなものとして感じられる。心身を吹き抜ける宇宙の風。あるいは透明な光。自己は、その自在な光と風のゆらぎの中に見えなくなる。
自己が見えなくなるといっても、意識がなくなるわけではない。鮮やかに目覚めた観照性そのものはそこにある。だが、何といったらいいのだろう。いつものあの固い主体のようなものが見当たらなくなり、ただ軽やかに今ここのプロセスを踊っている手のひらの舞が見えるばかりなのだ。こうして、私は立ち上がり、日々の営み(行住坐臥)を始める。ただただ今ここにあり、プロセスを生きる。だが、その突き抜けるような自在さは、しばしば見失われる。
だが、見失われたあの状態を、再び得ようと焦ることは、むしろ問題をこじれさせる。常にその状態にあることだけが真実だというこだわりは、それ自体、新しいブロックだ。無心の舞を持続「しようとする」ことによっては、けっして「無心の」舞は起こりえない。まさしくその「持続しよう」とする心が作為だからだ。
この人為的な無心の絶対不可能性の直視において、私は再び自己を手放す。いや手放すのではなく、その絶対不可能性を観た瞬間に、初めからあった光の舞だけが、そこにある。私が親鸞思想の三心に見たのは、そのような構造において、瞬間瞬間に目覚めを更新していくあり方なのであった。
だが、それをコントロールし、不動のものにしたいという欲望は、人間の心に生じやすいものだ。麻原彰晃は、その「完全に解放された状態」を固定できると考えた。
「では、ヴァジラヤーナとは何だと。これはいっさいの干渉する要因、それを肯定する。そして肯定していながら、それといっさい無干渉の自分自身の心をつくり上げていくと。その情報に左右されないと。金剛の心をつくると。これがヴァジラヤーナである。」「ということは結論は何かと。それは、いっさいの心を動かす要因から完全に解放され、そして自由になることである」(『ヴァジラヤーナコース 教学システム』麻原彰晃)
ヴァジラヤーナとは後期密教が、自らの大乗の次に来る教えとして定義する際の呼称である。麻原はそれを自分なりに歪曲して表現しているようである。実際のヴァジラヤーナがどのような思想を展開していたのかは、麻原の言動とは別に慎重な検討を要するだろう。
そこで、ここでは麻原の言動に沿って言うのだが、「いっさい無干渉の心」「左右されない金剛の心」を得て、それを完全に固定してしまおうとするこの思想の傾きは、超越性宗教が再び固着を起こし、権威化する際の典型的な最悪のパターンを示しているのである。

魂の螺旋ダンス 改訂増補版 読みやすい版 マガジン|長澤靖浩 #note https://note.com/abhisheka/m/m447cc391caf0

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