創価学会批判
『魂の螺旋ダンス 改訂増補版 読みやすいバージョン』の創価学会批判の節を少し加筆しようとしています。
今、少しずつ草稿を書いているところです。
(以下草稿)
だが、そのカルトが、絶対性宗教ともいうべき「権力と一体化した巨大な宗教団体」へと「成長する」ことはしばしばある。
ここでは、日蓮正宗の信徒団体として出発した創価学会が、戦後教勢を拡大した姿を最たる例としつつ、その絶対性宗教化を批判しておきたい。
既に本書でも、日蓮を取り上げた節で述べたように、法華経は自らを最高の経典であると謳うために多くの文言を費やしている。
もちろん、日蓮もまた多くの超越性宗教の創唱者と同様に、社会の最底辺から直接的に超越性原理に繋がる道筋を宣言して出発した宗教者であることは、認めるにやぶさかではない。
しかし、日本を法華一乗の国と為したいとする日蓮のナショナリストとしての性格は、「この教えこそが最高である」という絶対化に、瞬く間に傾斜していった。
中でも日蓮正宗の元となった大石寺は、自らの有する板曼陀羅を「戒壇の御本尊」であると主張した。
これこそが、立宗27年後に日蓮が「出世の本懐」を遂げたものであるとし、同寺の権威の唯一絶対性を主張したのである。
日蓮法華宗に連なる各寺、各派における権威の正統性の議論は複雑さを極め、本格的に論じることは本書の守備範囲を超える。
そこで今は、創価学会が「国立戒壇に掲げ、全世界の中心としよう」としていた、大石寺の「戒壇の御本尊」の正統性についてのみ検討することとする。
もとより、私は宗教の根源に現世の具体物としての本尊というものが必要であるなどと考えたことはない。
であるから、この「戒壇の本尊」が本物であるか偽物であるかについて日蓮に連なる人々が議論を重ねていることそのものが全くの無意味であるという違和感は強い。
その上で、それでも問題にするべき点があるとすれば、次のような点だけであろう。
この板曼陀羅は「大石寺の主張する由緒どおりの」「日蓮が板に書いた文字曼陀羅(南無妙法蓮華経を中心とする)を弟子の日法に彫らせた」「日蓮出世の本懐である」「戒壇の御本尊」に間違いないのだろうか。
つまり、少なくとも「戒壇の御本尊の権威を認める人々」にとっては、重要な「本物」であると言えるのであろうか?
この点については、安永弁哲の『板本尊偽作論』はじめ多くの資料において詳細な議論が為されてきた。
が、偽作説を決定的なものとしたのは、犀角独歩の『大石寺漫荼羅本尊の真偽について―所謂「本門戒壇の大御本尊」の図形から見た鑑別』(『現代宗教研究』第39号所収)であると言えるであろう。
犀角独歩はこの論文において、板曼陀羅の図像分析を詳細に行っている。その結果、その図形は弘安3年に日蓮が筆をとり、日禅に与えた曼陀羅と同一のものであることがわかったのである。
つまり、大石寺が言う、「弘安2年に日蓮が板に筆を揮い、日法に彫らせた『出世の本懐』としての『戒壇の御本尊』である」という主張は虚偽であることが証明されたのである。
権威主義者が権威の根拠としていた主張が虚偽であったということの意味は大きく、その権威は何重もの意味で地に堕ちたというべきだろう。
(つづく)