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人生最大の罪?

だいぶ前の話なんだけど、ショッピングセンターの障碍者トイレの便器を尿で少し汚してしまった。体調よければ自分できれいにして出られるんだけど、今、そういう作業をしようとするとトイレ内でひとりで転倒するかもしれないと思った。それで、ま、いいか、次の人が健常者か、介助者付きならなんとかできるだろうと思って、外に出た。

すると、その外の廊下から広い通路に出たあたりに、お父さんらしき人と小学校低学年ぐらいの女の子がいて、お父さんが「よかった、空いた」と言ったように見えた。女の子は健常者に見えたけど、障碍者トイレで用を足したかったところ、空いてなかったので待っていたようだった。

そのとき、本当だ、すぐに空いてよかったと思ったのか、女の子は「わーい」って感じで、走るような小躍りするようなステップを踏んだ。そして、お父さんが行っておいでと促したように見えた。そのあとはよく確かめて観察していたわけではないんだけど、たぶん女の子は障碍者トイレに入ったと思う。

するとそのとき、便器が少し尿で汚れているのを見たと思う。それから、お父さんを呼んだだろうか。とにかく誰かが、トイレットペーパーや便座クリーナーを使って拭かなければいけなかったと思う。せっかく、あ、すぐ空いた!と思って小躍りしたのに、入ってみると汚れていたとき、いったん、がくんと気分が落ちたに違いない。あんなに小躍りしていたのに。

僕はもう電動車椅子で移動し始めて、わざとのように現場を離れてしまった。しかし、あの小躍りしていた女の子が、便座を見たとき、ちょっと悲しかっただろうと思うと、転倒の危険性を冒してもやはり拭いたらよかったと思った。だけど、ごめんね、汚れててと言いに戻る勇気はなかった。

ふだん、障碍者の境遇についてあれだけ色々クレームつけている人が、逆にこれではいかんでしょう。いや、そういう倫理的な問題ではなくて、理屈ではなくて、あのとき、女の子が「あ、空いた」と小躍りしていたのと、その子が入っていって観たものを想像すると、胸がきゅんきゅんきゅー-んとなった。

それはたぶん、小さかったときの自分の娘と、今のあの女の子が脳のどこかでリンクしたんだと思う。というのも、そのとき思い出したのは、0歳で米国に渡った娘が3歳で日本に戻って、一緒に日本のショッピングモールのトイレに入ったときのことだったのだ。そこの一段高いところに登ってからしゃがむようになっている和式トイレを見た娘が、「なに、これ? ここに座るの?」と言ったのだ。

米国には和式トイレはなかったし、家も洋式トイレだったので、娘はそのとき、産まれて初めて和式トイレを見て、しかも一段高いところに上がってからしゃがむタイプだったから、洋式のときのように反対向きになって、白い淵に座るのかな?と想ったのだ。

初めて見たのだ、知らないんだ!と思ったとき、わけもなくきゅんとなって、ここにあがってしゃがむんだよと教えた。

「へえ」という感じで娘は初めてそうしたのだ。

なぜか、そのときの娘の様子が脳の中でパルスがつながるみたいに明滅して、ああ、あの女の子は便器が汚れているのを見たとき、えっ?と思って、少し悲しかったんじゃないかと思うと、きゅんきゅんきゅんとなって、もう僕が生まれてこの方犯したすべての罪の中で一番重いやつが、今、まあ、いいかと思って便座を拭かなかったことだと思った。いや、普通に考えて僕はもっと重い罪を犯したことがある。僕のせいで自殺したのではないかと思う女の子だっている。自分の娘にだって、今日のこれとはくらべものにならいほどひどいことをしたこともある。(今は触れない。)子どものとき、雨蛙を地面に叩きつけて殺したこともある。(小説「雨蛙」読んでね。)

でも、今、あの女の子が入っていく前に便座を拭かなかったのはそのようなすべての罪よりもずっと重くて、その便座を見た女の子の表情を思うと、自分は地獄に落ちても仕方ないと思った。

閻魔様がどの罪をどう勘定するかは、人間の法廷とは殆ど無縁な算定方法なのに違いないと思うのだ。たぶん。でも、これがすべての罪の中で一番悲しいと感じるのは実はあまりにも主観的な都合で、自分勝手かもしれない。だけど、とてつもなく悲しい。何か別の回路で脳の中の別の悲しみにもつながっている可能性もある。悲しみのクラスターみたいなものの構造が今いちよくわからない。とにかく脳は不思議だ。

この文章を書いた私の真の動機もわからない。書かないと終わらないというのはあったとして。もっと重い罪を隠すために書いたのか。いや、あのシーンだって、細部をもっともっと正直に書けば、転倒せずに拭ける可能性は今書いた叙述よりはずっと高かったのではないか。その他、自分でも気づかないほどの細部に微妙な表現の歪みがないか。つまり、人間は一瞬のうちに自分で自分に嘘をつくのを止めるのはほぼほぼ不可能だ。故にすべての嘘が光に照らされるのは死んでからだけだ。たぶん。

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長澤靖浩
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