アミタの観た夢 (Xー8)
奈津子の骨肉腫に冒された脚の切断手術は二度に分けて行われた。
一度目の手術では、脚の病変部位から先をとにかく転移のないうちに切断し、仮の人工骨を入れた。術後の踵を曲げるための複雑な処置は含まれておらず、奈津子の左足はぴんと伸びたままになった。つま先立ちしかできない状態である。それでも両松葉杖で病棟内を歩く練習をした。
二度目の手術が本番であった。アキレス腱を斬って、踵を曲げ、足の裏を踏みしめられるようにする。そして、あの時見せられた金属の人工骨が挿入された。固くて不気味なほどであったが、後で聞いたところによると、実は保証された耐用年数は僅か五年に過ぎなかったという。
というのも、当時の医療水準では、進行してしまった骨肉腫の五年生存率はほぼ0パーセントに等しかったのだ。そのため、人工骨について、五年以上の耐用年数の物を用意しなければならない理由がなかったのである。
だが、今の奈津子は五〇歳を越えてなお、人生を歩んでいる。三〇年以上の長きに渡り、その「耐用年数五年」と言われた人工骨は、折れることなく働き続けている。
それはある種、薄氷を踏むような状態であった。専門の医者の意見ですら二つに分かれていた。ひとつは、金属疲労により、いつ折れるかわからない人工骨を保護するためになるべく歩かず、車椅子などを使用した方がよいという意見。もうひとつは、松葉づえを使って歩くという行為を続けることこそ健康保持のために必要であるという意見であった。
だが、この時の奈津子はまだ後の自分の人生の歩みについて何の展望も持ち合わせていなかった。友人たちが謳歌している明るい世界から断ち切られた病室のベッド上で四つん這いになり、術後も点滴され続けた抗癌剤に嘔吐し続けながら、自分にはもう「出産も恋愛も無理だ」という冷厳な予測とひとりで向き合っていた。
厳しいリハビリを経て、奈津子は松葉杖を突いて歩けるようになった。母親だけが聞かされていた(奈津子はずいぶん後になってから聞かされた)五年以内という余命を越えて、奈津子は松葉杖の助けを借りて体を左右に揺らしながら、歩み続けた。
入院による欠席が重なり、やっとのことで高校を卒業した奈津子は、かつてのような優秀な成績を保つことはできなかった。それでも基本的な学力だけを頼りに心理学を学ぶ専門学校に進学した。
様々な理由で学校や社会から切り離され、孤独の中でなんとか生きながらえている子どもや青年たちに、奈津子は関心を寄せていた。病によって仲間たちから切り離された自分の経験がどこかで彼らの立場と重なるからこそ、何らかの形で役に立てるのではないか。そう前向きに考える力が奈津子に残っていたのは、寄り添ってくれた母や、ケースワーカーや数少ない本当の友人のおかげだったかもしれない。
心理系の専門学校を卒業した奈津子は不登校の児童・生徒を家庭訪問する仕事に就いた。市の予算による有償ボランティア活動であり、収入はけっしてよくなかった。しかし、彼らと向き合って話す時間、奈津子は失われかけていた生の充実感の欠片をかき集めることができた。
不登校児の「溜まり場」として、有志によって運営されている小さなオルタナティブスクールにも奈津子は時々顔を出すことがあった。そこで、奈津子が「ヒーリングマッサージ」のワークショップのチラシを目にしたのは、そんなある日のことだった。このマッサージを学んで必要に応じて施術することは、不登校児の心の健康にとっても有効かもしれない。
デフォルメされた猫のイラストがふんだんに用いられたそのチラシになぜか心惹かれた奈津子はこのワークショップに参加してみたいと思った。