覚醒のよりどころ(四念処経) 序
(訳出掲載にあたっての個人的経緯)
マインドフル瞑想とか名付けられ流行しているものは、厳密には四念処経に基づく瞑想でなければならない。しかし、四念処経を読んだこともない指導者がビジネスに応用するなどと言って指南し流行しているのは嘆かわしい。
1990年代の初め、日本ではじめてティクナットハンの『マインドフルの奇跡』が壮神社から出版されることになったとき、私はその巻末経典部分の担当となった。巻末経典をすべて訳した。大谷大学へ行き、漢訳のあるものはコピーし、またパーリなどからの直訳のあるものはそれをコピーし、横においた。そうやって、英語をできるだけ現代日本語に直接置き換えようとしながらも、それら過去の経典訳出の偉業を参照した。
ところが、その巻末経典の殆どを監訳者はカットしてしまった。日本人になじみの深い維摩経などの大乗経典を考えもなしに残し、一番肝心な念処経を省略してしまった。安般守意経は呼吸を観つめるというのがわかりやすかったせいか一部残した、
そうしておいて、あとがきで、ティクナットハンの経典引用について監訳者はとんちんかんな疑問を書いていた。経典の大事な部分を省略するからそういうとんちんかんな疑問が出たのである。
私は経典訳出後、アメリカに行き、三年間一度も日本に戻らなかった。知ったときには、この本は完成(?)出版されていて、上記のようなことを指摘したが、あとの祭りであった。
さてこの本の2014年新版の『<気づき>の奇跡』(春秋社)には、旧版の失敗を踏まえ、巻末経典部分が全部おさめられている。これを以て、この私の訳を発表する必要性は薄れたが、せっかくなので、一応noteにアップしたいと思う。
なお、私は訳出を終えて1994年にアメリカに出発するにあたり、漢訳経典のコピーなどを翻訳グループの中の友人に託した。そのため手元に資料はなく、資料を座右におき、改めて確認するにはまた母校に行くか、図書館で取り寄せなければならない。
そのため概ね、当時の若気のいたりの訳出を再掲するだけとなるが、どうしても解きたい点があればもう一度資料にあたるかもしれない。
(本文)
サテイパッターナ・スッタ (念処経)
パーリ語経典から、ニャーナサッタが英訳したもの
このようにわたしは聞いた。
あるとき、祝福されし者(釈迦)は、クル族の町、カンマーッサダンマに、 クル族に交じって暮らしていた。
そのとき、仏は僧侶たちによびかけて、こう言った。
「僧侶たちよ」
彼らは答えた。
「世尊よ」
仏は次のように語った。
「僧侶たちよ、ここに、生きとし生ける者の浄化、悲しみと愁いの超越、苦しみと憂いの消滅、正しい道への到達、解脱の実現のための、唯一の道がある。
すなわち「四念処」 (注意深さの四つのよりどころに基づき覚醒する道)と言う。
四つとは、何を指すのか。
この四念処の教えに基づき修行する、とある僧侶がいるとき、
(1)彼は身体において身体を見きわめ、怠りなく、はっきりと理解し、注意深さを保ち、この世の貧欲さと憂いを乗り越えて、生きている。
(2)彼は、感覚において感覚を見きわめ、怠りなく、はっきりと理解し、注意深さを保ち、この世の貧欲さと憂いを乗り越えて、生きている。
(3)彼は、心において心を見きわめ、怠りなく、はっきりと理解し、注意深さを保ち、この世の貧欲さと憂いを乗り越えて、生きている。
(4)彼は、法(精神的対象)において法を見きわめ、怠りなく、はっきりと理解し、注意深さを保ち、この世の貧欲さと憂いを乗り越えて生きている。」
仏はまず注意深さの四つのよりどころについて、そのように概略を示した。
(つづく)
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