吉村萬壱「臣女」

2015年3月19日

 再読せずにメモするので不正確かもしれないが、『臣女』の一番目のテーマが介護であるという説が流布し、作者も「それで受けるなら、それでいこう」と思っている節があるが、私が読むと違う。
 私が読むと、そういうありきたりのものでなく、もっとおもしろい。
 『臣女』の第一のテーマは、妻という存在の理不尽さと恐怖(こっちには保護意識が混じる)、二つ目のテーマは母という存在の理不尽さと恐怖(こっちはより色濃く怒りが混じる)だと私は思う。そして3つ目のテーマは、にもかかわらず、それらのことについての、近所や職場などの世間の飽くことなき「覗き」を防ぎ、飽くまでも独りで解決してしまおうという主人公の悲愴な決意である。(最も侵入的に覗くのは、ご多分に漏れず、母親であり、母親が訪ねてくるシーンとそこでの主人公の怒りは、この小説の隠れたクライマックスのひとつだと思うほどだ。)この複雑な状況のサバイバルがこの小説の総合テーマだと思った。
 私がこれまで萬壱文学に見てきたものは、暴力とそれによる支配という現実の直視だ。それは主人公の暴力である場合も、異星人の暴力である場合も、人類の狂気として描いているという点で同じだ。(「ボラード病」だけはそれを目に見えぬソフトな支配として描いているので違うように見えるが、潜在的には同じだと思う。この作品は初めてそれをソフトな支配として描いたので新境地を開いた名作であり、後期の出発点になったと思う。)
 そしてもうひとつは、窃視欲と、覗かれているという感覚とのせめぎあいだ。「ハリガネムシ」から、教職を去って「ボラード病」を発表するまでの間の、コアなフアンだけが付いて行った作品群は(私は友人だから付いていった)、窃視欲と覗きのせめぎあいがかなりのウエイトを占めていたと思う。(「独居45」など。)
 それらを下準備として『臣女』は、暴力的支配の理不尽さの直視と恐怖、それを覗かれまいとする悲愴な決意の下の孤独なサバイバル小説だと、私は読んだのである。もちろん、そのサバイバルは介護することによってしか不可能であるのだから、介護小説というのは、あながち間違ってはいないのだが。
 以前に私は不倫相手との描写は流し過ぎではないかと指摘した。萬壱文学の濃密度や、ふだん自分で言っている「ありきたりな比喩などは絶対使わない」という宣言を裏切っているのではないか、と。たとえば「驚くほど体が合った」という部分などは、どれだけ流してるねん?というような、ええかげんな文体であると書いた。
 しかし、本人に聞いたところ、それはわざとであって、特にこの部分は「不倫に苦しむ男たち」という俗っぽいルポルタージュからのそのままの引用だということだった。(私も読んだことがある。)わざとこっちは薄く描かなければならなかったのだ。そこには作品上の計算があるといえば、ああ、そうですかぁと引き下がらざるをえないのだが、私はここにもまた、妻という存在の理不尽さとそれに対する恐怖を読んだのだった。ここは濃く、本気で書いてはいけない部分だったのだと。そんなことをしたら、サバイバル=介護はもっとたいへんになり、妻はもっと巨大化する。
 この解釈には作者自身が反対し、そこに愛という、彼がふだんは遠ざけている言葉を持ってくる可能性があるが、これはあくまでも私の解釈であり、だからこそ、この小説はとてもおもしろい「サバイバル小説」だったと私は言いたいわけである。

妻の巨大化は、基本的には、男の幼い頃の(理不尽な、だがアンビバレンツな愛情を覚えずにはいられない)母に、妻が似てくるということの暗喩になりうるものだと思うが、「臣女」にそれがどれくらいあてはまっているかは、再読しないと意見を言えない。

「もしも」などという思考方法は、現実でも小説でも、あまり意味のない場合が多いが、もしも『臣女』の夫婦に子どもがいたら・・・という仮定は、子どものいない夫婦を描いた小説として読むときの鏡として、許容される範囲の仮定ではないかと思う。
もしも子どもがいたら、妻は母親になる。このとき、女はときとして、子どもとの関係の中で、強くなり、多くを学び、男よりも先に魂を成熟させていく場合がある。あるいは世間の波に飲まれて不安と迎合でもっとダメになる場合もあるだろうが。また男も、自分と母親との関係を、妻と子どもの関係の中でもう一度検証する機会を与えられるし、自分と父親との関係も、自分と子どもとの関係の中でもう一度検証する機会を与えられるだろう。
しかし、子どものいなかったこの夫婦にとっては事情は異なる。主人公と母親の関係はそのままだし、主人公と妻の関係は、教師と高校生だった出会いの頃と変わらない。妻はあくまでも庇護の対象であり続け、ある意味、子どもであり続けるのだ。
死んでしまって船に引き上げられた巨体にかけられたブルーシート。そこからでてくる幻影が女子高生のままなのは、そのことを象徴している。このシーンは、夫婦というものの辿る「通常の道」(?)から大きく外れてしまっていた二人の末路として、なぜか、深い悲しみを誘い、胸を打つ。「すべては愛ゆえのこと」という解釈が成り立ちうるのは、このシーンのそういう力の故だろう。
これは一度書いた気がするが、もう一度、フォーカスしておく。

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