この世に投げ返されて(26) ~臨死体験と生きていることの奇跡~
(26)
いったい、どのような命が生きるに値し、どのような命が生きるに値しないのか。
実はそのような問いを立てること自体が、ある時代以降の日本の政治家たちの思惑に誘導されてしまうことです。
私は中学校の教員時代に書いた次の文章をここに挿入しておきたいと思います。
これは福井県若狭町の第5回「のこすことば文学賞」に入選し、『のこすことば 明日へ 未来へ 第5集』に掲載されたものです。
「生きていてよかったなぁ」
その年、中学3年生のクラスの副担任をしていた僕は、修学旅行で、自分が副担任しているクラスではなく、A君のいるクラスに付きそうよう学年会議で配置された。
養護教育のキャリアを買われたのか? Aは重度のダウン症のため、言葉によるやりとりはほとんどできなかった。 だが、持ち前のやさしくひょうきんなキャラクターもあって、クラスメートからは「Aちゃん、Aちゃん」と親しまれていた。
中学卒業後は養護学校に進学する予定だったAにとって、この修学旅行には他の生徒以上に大きな意味があった。 生まれたときから、地域でともに過ごしてきた友人たちとの最後の旅行になると思われた。
修学旅行の最後の夜、担任のT先生は、ぜひAに皆と一緒にお風呂に入らせたいと言った。
手術で人口肛門をつけていたAはいつ便をするかわからなかった。
特にお風呂は温かく、リラックスして体も緩んでしまうのか、湯船に便をすることが多かった。
そのため、この二日間は皆と一緒に大浴場に入るのは控え、教員が交代で部屋の小さなバスで介助しながら入浴させていたのである。
しかし、今夜を逃せばもう、Aは一生、幼いころから一緒に野山を駆けまわった地域の仲間と一緒にお風呂に入ることなどないかもしれない。
短い時間、クラスメートと一緒に湯船につかるだけなら、Aなりに体が自然に状況を理解して、便をせずに上がるかもしれない。 それに賭けてみようとT先生は言った。
クラスメートの誰も反対しなかった。
それはT先生のふだんからのクラスづくりが成功しているからだ。
クラスには、Aを排除する雰囲気や逆に特別扱いする雰囲気はなかった。
日常の学校生活でも、介助の係を決めて交代制にしなくても、自然にその時に気づいた生徒が、必要な助けを行っていた。
また、子どもたちは、Aが言うことを聞かず、授業の邪魔になるときは、遠慮なく「うるさい。黙っとけ」などと注意したりもした。クラスメートに注意されると、人の事情を察したAは、静かにすることが多かった。
何よりも幼稚園、小学校、中学校と、それが当たり前のこととして過ごしてきたのだ。よくも悪くもAだけを特別扱いするのではなく、クラスメートのひとりとして接してきたのだ。
その長い蓄積の上に今日の修学旅行がある。
だから、Aが授業中に時々便をして、先生に介助トイレに連れていかれるのを知っているクラスメートの誰も、同じ湯船にAが入ることに反対しないのだ。
T先生が洗い場でAを介助して、頭や体を洗い、僕が脱衣場で待機して、出てきたAを拭いて服を着せることになった。
脱衣場で待っていると、浴場からは賑やかに談笑する生徒たちの声が響いていた。
よかったなあ、皆と一緒にお風呂に入れて。 こんな当たり前のことがもうすぐできなくなるんだなあ。
「N先生~」
「はぁーい」
「そろそろです」とT先生の声がした。
僕が脱衣場でバスタオルを広げて待ち構えていると、がらっと引き戸が開き、「お願いしまーす」というT先生の声とともに、Aが胸のあたりで両手をヒラヒラさせながら飛び出してきた。
僕はそんな彼を広げたバスタオルで受け止めた。
ほかの誰かの体をバスタオルで拭くのは、自分の子どもの小さかった頃以来のことだ。
「懐かしい感覚だな」と思いながら、まず髪の毛をタオルにくるんでごしごし拭いていると、Aは満足げに口をもぐもぐさせて微笑んでいる。
「よかったなぁ。皆と一緒にお風呂に入れて」 僕は言葉に出してそう呟きながら、今度は体を拭き始める。
と、Aの胸の真ん中には、ざっくりと鉤状になった手術の傷跡があった。
見るだけで痛々しい。 脇をあげさせて横腹を拭くとそこにも別の手術跡があった。 命にかかわるたくさんの障碍を抱えてAは生まれた。
生まれてすぐにいくつもの手術を受けて命を取りとめた。
それからも何度も、追加の手術を受けた。 その話はお母さんの手紙に託されて、クラスで朗読されたことがあった。
僕も十九歳のときに両肺を手術したことがあった。 術後の麻酔が切れた後は、一晩中、鉛に押しつぶされるような痛みと苦しみで、嵐にもまれる小舟のようだった。
こんな痛みというものが存在するなら、初めから生まれないほうがマシだったとさえ思った。
体にメスを入れることは、十九の大の男にとってすら、それほど辛いことだった。
それなのに・・・僕はAを拭きながら、赤ちゃんだった頃の自分の子どもの小さな体を思い出した。
産まれたばかりのあんな華奢な体に次々とメスを入れなければいけなかったのかと想うと、いたたまれない気持ちになった。
「手術、痛かったやろ。辛かったやろ。なんでこんな目に合うのか、わからんかったやろ」
「でもなあ、いっぱい手術をしてもらって、命を取りとめて生きててよかったなあ」
「今日、皆と一緒にお風呂に入れて、ほんまによかったなあ」
脱衣所でAとふたりきりだった。
言葉のわからないAにそんな風に言葉をかけながら拭いているうち、涙がこぼれてきた。
そんな僕の気持ちを知ってか、知らずか、Aは茹蛸のようにほてった顔で、幸せそうに微笑んでいた。 (引用終わり)
私は10代の頃にインドの瞑想の師匠(グルと呼ばれる)バグワン・シュリ・ラジニーシに、あるまがままの自分の姿を宇宙と一如のものとして感じる境地に導かれ、師事するようになりました。
しかし、バグワンは晩年、次のような発言をしました。
「もし子供が盲目、あるいは奇形児として生まれたら、もし子供が聾で、唖で生まれたら、しかも私たちにできることが何もないとしたら・・・・・。ただ生命は亡ぼされるべきではないというだけのことで、ただこの愚かしいあなた方の考えのために、この子供は、七十年も八十年も苦しまなければならないことになる。どうして無用な苦しみを創り出すのかね? もし両親が望むのなら、その子供は永遠の眠りにつかせるべきだ。そしてそれには何の問題もない」(『大いなる挑戦――黄金の未来』バグワン・シュリ・ラジニーシ 1988年)
この言葉を読んだとき、私は彼と決別することに決めたのです。
もしも、この言葉のとおりに産まれたばかりの障碍者が殺害されていたら、私の参加していたダンスバリアフリーの仲間のあの人もこの人もメンバーの中にいません。一緒に踊ることができていません。
いや、ほかならぬこの私も、蘇生後に身体障碍が固定するとわかった段階でもう一度永遠の眠りにつかせるべきだとなったでしょう。あるいは、それ以前に脳細胞の破壊の程度から見て、無用な延命は本人や周囲の苦しみを長びかせ、病床を圧迫するとして、知らないうちに人口呼吸器を外すのが妥当だとされてしまったかもしれません。
しかし、私のダンスチームには車椅子で軽快に走り回る敬愛するべき先輩がいました。目が見えないTくんは「見えてるやろ。見えてるやろ」と言われながら、目を閉じたままにこにこ笑っていました。彼は練習が終わってビールを乾杯するとき、「かんぱーい」という声の聞こえる方向に笑顔で見事にグラスを合わせてきました。
発達障碍と診断されている人たちの中には、学校や職場で人間関係がうまくいかず、この仲間の中でだけ寛ぐことのできる人もいたことでしょう。
私や彼らの人生に幾多の苦しみがあろうとも、あふれくる歓びもまたあるのです。私の出会った生徒たちや、ダンスチームの仲間の人生を勝手に不幸と決めつけるようなバグワンの言葉は、私には視野狭窄なだけではなく、根本的な誤りがあるように感じられました。
それはこの娑婆世界とは、もともとありとあらゆる障碍に満ちているものだという認識の欠如です。
犬も歩けば棒に当たるこの世界で、私たちは棒に当たればその棒に美しい紋様をペインティングしましょう。棒がなければ、頭を打たないかもしれません。しかし、どこまでも空無の中を手ごたえもなく滑っていくだけではありませんか。
すべての障碍は、私たちの多様なるダンスのためのモチーフなのです。
私は、臨死体験において完全に無碍なる世界を知ることで、以前よりもはっきりと、宇宙のその仕組みを知るに至ったのです。