この世に投げ返されて (22) ~臨死体験と生きていることの奇跡~
(22)
釜ヶ崎という地域への特別な思いの始まりは、実は幼少期に遡ります。まだ私が幼くて、その地域について見たことも聞いたこともなかった頃です。
小児喘息の発作のために週の半分は小学校を休んでいた私に母親は「あんたは体が弱いから、しっかり勉強して、いい会社に入らなあかん」と言って、学校を休んでいた分、遅れをとらないように勉強を教えてくれました。
母は、NTT(当時の電電公社)の勤務から帰ってくると、調理をしていた祖母に合流して、食卓に夕食を並べます。家族で夕食を済ませ、片づけたあと、さあ、八時ぐらいから私に勉強を教え始めるのです。
その時に私は母親から釜ヶ崎という言葉を初めて聞きました。
「ちゃんと勉強して、いい会社に入らないと、釜ヶ崎に行って、土方仕事を探さないといけなくなる。そやけど、あんたは体が弱いから、仕事にあぶれるか、仕事に付いていけなくて死んでしまう。いいか、そやから、勉強するんやで」
これではもうその地の名前は象徴的次元に到ってしまうではないか。
だが、幼い僕にとって、その地名が何か恐ろしい地獄のようなイメージと結びつくことはありませんでした。
むしろ後にゴダイゴの「ガンダーラ」という曲を聴いたとき、妙に自分の心のどこかで「釜ヶ崎」と響きが重なる感じがしたのは、いったいどういうことだったのでしょうか?
大学生になって、インド人のグルに会うためにアメリカに渡った時、その帰りにサンフランシスコでしばらくぶらぶらと過ごしていたことがありました。
ある日、ダウンタウンの小さな食料品店で、衣服の臭いの強い、髭面の白人に「チェンジ」と手を差し出されました。小銭をくれと言っているのです。
私はけっして裕福な旅をしていたわけではないのですが、ふと縁を感じて、彼にクォーター(25セント玉)をひとつ上げました。すると、彼は私に一枚のチラシをくれました。
「What’s this?」
「シスコのサルベーションアーミー(救世軍)のリストだ」
彼はチラシの中の文字を指さしながら続けました。
「このセントアンソニー教会は、マーケットストリートまで下ればすぐだ。とてもおいしいブランチにありつける」
その一枚の紙を25セントで手に入れたのは上出来でした。
私は月極で安く宿泊していたホテルから近いセントアンソニー教会に、毎日通うようになりました。列に並んで地下に降りていくと、広い食堂があります。いくつかの区画に区切られているオレンジ色の大きなトレイを持ってカウンターを進んでいくと、ビニールの手袋をはめたボランティアたちが、肉や野菜の日替わりの料理を区画に置いてくれます。さらに進んでいくと、パン、コーヒー、そして最後に持ち帰りも可能なおやつです。
私は様々な肌の色、境遇の人々と大きなテーブルにつき、片言の英語で会話しながら、毎日食事していました。
「サンフランシスコで三日乞食をやるとやめられない」という「ことわざ」は、瞑想仲間の間で時々聞いたことがありました。私は「このことか」と思いました。
そのような「救世軍」の活動をしている教会は、サンフランシスコにいくつも点在していて、ブランチを提供している教会、サパーを提供している教会を梯子すれば、食いはぐれることはありませんでした。
街を歩くと、いつもどこかでストリートミュージシャンに出くわし、とても乗りのいい音楽を聴かせてくれました。
私の脳の中で何故か、サンフランシスコと釜ヶ崎とガンダーラという言葉は三つ巴になってくるくる回転していました。
そんな私ですが、実は、釜ヶ崎の三角公園を初めて訪れたのは、心室細動で倒れるほんの二カ月前、越冬闘争という名前の「お祭り」をしている最中でした。
炊き出しをしている一方、小さな野外ステージでは、様々なミュージシャンが音楽を演奏していてます。公園の真ん中には火が焚かれていて、ホームレスも含む多様な人々が暖をとっています。
その光景を見ながら、私は「やはりここだったのだ」という不思議な感覚に捉えられていました。
臨死体験から生還して後に、私は何冊かの書物を上梓しましたが、そのうちの一冊が『浄土真宗の法事が十倍楽しくなる本』(銀河書籍)です。
その中、私は「仏説阿弥陀経」を釈迦が説いた「場所」について次のように訳しました。
「ここは、ギダ太子の所有する園林です。ギッコドク(給孤独)という、孤独な人々に炊き出しの活動をしていた人が、お釈迦様に寄進した土地です」
そこで釈迦は、往生したあとに到る極楽とはどのようなところ(極楽の荘厳)であるかということを描写する「阿弥陀経」を説いたのです。
仏教の経典には、すべて序分という前書きがあり、釈迦がいつどこで誰に向かってこの教えを説いたのかが説明されています。この経典が説かれたのは、この釜ヶ崎のようなところではないかと私はこの部分を訳しているとき、強く意識していたのです。
では、釈迦はその場所でどんな人々に向かって極楽浄土の様子を説いたのか。
そこには釈迦の十大弟子ももちろんいました。
人々は釈迦の十大弟子といえば、私たちには手の届かぬような賢者ばかりだと思い込みがちです。
しかし、そのひとりひとりの抱えたカルマ(業)をつぶさに見るとき、十大弟子とは実は選りすぐりのエリートなのではないことがわかります。
むしろ、後の私たちが、自分自身と重ね、こんな自分にも解放されていく道がある、誰にでも開けていく道があると感じるために十大弟子はその存在が経典に描きこまれているのではないのかと思えてくるのです。
知的障碍のあったシュウリハンダカ。過去生の牛の匂いが強くて避けられがちだったキョウボンハダイ。色黒で容貌が醜いことに悩んでいたカルダイ。
子ども時代を思い出すとクラスにそんなやついたなあと思いだしたり、あ、それは自分のことだと思ったりする人もいるのではないでしょうか。
それどころか、すべてを記憶するが、理解することができないアーナンダもある種の発達障碍だったのかもしれません。数学に特別優れていたコウヒンナもアスペルガー症候群だったのかもしれません。
長い間教員をした私はそれと共に、教員としても、そのような多様な生徒に出会ったものだという思いがあります。
それらの人々が、ふだんからここでの炊き出しに集まっている貧しく孤独でよるべない人々と共に死んだ後に行く世界についての釈迦の説教を聴いたというのです。
臨死体験のあと、用のあった市役所や病院、買い物や図書館などの身近ななじみの場所以外のところへ出かけるチャンスが巡り合わせてきたとき、私がまず最初に車椅子で訪れたいと思った場所。
それが釜ヶ崎だったことには、何かしら必然性のようなものさえ覚えるのです。