イザヤ書を読む 続き

2013年12月23日

 正義(ツェダカー)と裁き(ミシュパト)とは、イザヤにおいて、「弱者の側に立って痛みを共感するところから物事を判断し、不当に抑圧され、奪い取られている権利を取り戻すとともに、富と権力の座にあるがゆえに真実が見えなくされている人々をそこから引き降ろして、共に平和のために働けるようにする」ことだということは、先に述べた。
 本田哲郎は書いている。
 「しかし、もし、神の救いの力である正義と裁きの実践ではなく、富と権力のエジプト帝国に頼るなら、頻発するナイル河の氾濫に巻き込まれるように、彼らの抑圧と搾取の「洪水」に、昼も夜も押し流されるはめになるとイザヤは警告します。エジプト帝国が提供する安全保障の「寝床」は、安心して寝ていられるようなものではないことをはっきりと告げます。」(「イザヤ書を読む」p106)

 このエジプトをアメリカに読み替えたら、今の日本の状況として読めるであろう。

民は少数派であること、弱者の立場にあることを誇りとし、そこに両足を踏まえて戦えばよかったのです。

国家としての体面、繁栄、力を維持しようという思いからではなく、民の中の最も小さい者、弱い者を守るために、どうすればよいかという視点に立って、外圧(アッシリア)に対して対応すればよかったのです。
(中略)
修道会も活動グループも、数が増えて組織が完備されないと不安で落ち着かず、人材と資金獲得に勢力を注ぎます。 しかし、福音の価値観から見れば、小さく、貧しいグループの精一杯の働きのほうが、ゆとりのある大きな団体の物量活動よりも、はるかに力強く、人々への影響も大きいというのが実感です。

自然発生的な草の根の無数の小さな活動グループが、その小ささゆえに弱者との共感が得られることを認め、その微力さを積極的に肯定し、組織としてではなく、ネットワークとして横に連帯していくことこそ、最も福音的であり、神の救いの業に協力しやすい状態を保つことになるのです。

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長澤靖浩
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