二種深信の超簡単な説明
あるがままの自己の究極の現実に身を開くこと。それは恐ろしいことでもある。だが、その向こうには、贈られている命のあるがままを生きるかろみと安らぎが広がっている。
(『魂の螺旋ダンス』より)
浄土真宗では結局何をしていても救われるのかという究極の質問に、最短で応える。『魂の螺旋ダンス』からの引用で。これは50枚の論文「念仏もうさんとおもいたつこころ」(1988年暁烏敏賞)を著書の一節に短くまとめたもののさらに抜粋です。
(以下『魂の螺旋ダンス』より引用、抜粋)
親鸞の生の言葉の記録としてよく知られている『歎異抄』の冒頭には「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもいたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり」とある。「念仏もうさんとおもいたつ心」が起こったその瞬間に、人は根源的な光に包まれ、自己解放が成就するというのである。
では、「念仏もうさんとおもいたつ心」とはいったいどのような心を指していうのだろうか。この問いかけにひとつの重大な鍵を与えてくれるのは、浄土教における「三心」の問題である。
「三心」すなわち「至誠心」「深心」「廻向発願心」への言及は、観無量寿経にはじまり、善導、法然によって検討が重ねられる。そして、親鸞においてさらにもう一度、意味の転化が行われたと言うべきであろう。
(中略)
あるがままの自己の究極の現実に身を開くこと。それは恐ろしいことでもある。だが、その向こうには、贈られている命のあるがままを生きるかろみと安らぎが広がっている。
(中略)
至誠心とは、たとえ自己がどのような存在であれ、そのすべてをあるがままに観てとる心と言い換えることができるだろう。だが、この事は「言うは易し、行うは難し」である。なぜなら、その事によって、自らが基盤とし恃んでいた自我が、粉々に崩れることもあるからである。いや、それは必ず粉々に崩れる。なぜなら、真実の相においては自我はそれ自身の中に存在の根拠を持たない「無常」のものにすぎないからである。たとえば、自らは必ず死すべき存在であるという一点を、今ここでしっかりと見定めるだけでも、私たちは自分の存在の根拠が自分の中にないことを知って愕然とするのである。
そのため、この至誠心が発動し、根源的な光が自我を突き破って現れるには、一定の道筋が必要である。そして、この道筋を明らかにするのが「深心」という用語なのである。浄土教においては、この深心は「機の深信」と「法の深信」の「二種深信」が「啐啄同時(そったくどうじ)」に発動する姿として明らかにされる。
「機の深信」とは、自我をあるがままに見つめ、それが粉々になっていくのを許すという側面である。「法の深信」とは、その自我の崩壊の底から立ち上ってくる根源的な光を信じ受け入れるという側面である。
この両者は、同時でなければ成立しえない。なぜなら、根源的な光に照らされることなしには自我の崩壊を許すことはできないし、自我の崩壊を許すことなしには根源的な光に出会うことはできないからである。
また親鸞は、三心の三つ目の「廻向発願心」を「根源的な解放を願う心は自我の内に根拠はなく、宇宙の無限の働きが自らの内に働いて生じたものである」と明らかにしている。