子どものとき、共に過ごさなかったことの取り返しのつかなさ
どうせ除名になるのが見えてきたとき、つねきは謝罪を撤回したのでしょう。
初め太郎はやり直しのためのレクチャーを言ってましたから、つねきは謝罪ポーズをとったのです。
批判に耐えかねて、除籍が原案と、太郎がひるがえったら、謝罪を取り消したのです。
つねきは何重の確信犯なんでしょうか。
太郎の初動は、何度でもやり直せるではなく、何度でも騙されることを示しただけでした。
つねきは、れいわ新選組によって有名にしてもらった利益を保持して、維新から立候補して当選するでしょう。
日本は優生思想の国に一歩ずつ近づくでしょう。
木村英子らと思想戦ですが、思想だけでは勝てません。
子どものときから、共に過ごさないとわからないのです。
木村英子は、「共に過ごすことでわかることである」と、そこまではっきり言説にしてますが、共に過ごしてこなかった人には、わからないか、理屈としてしかわからないのです。
だから、共に過ごさなかった人の想像力を喚起するのが文学の仕事と思って、「生きていてよかったなぁ」を僕は書きました。
が、仮に、ほろっと来ても、映画を見ても思想が変わらないように、映画館を出たら、優生思想社会日本に再び巻き込まれるでしょう。
子どもの時に分離されたことの欠陥は死ぬまで残るでしょう。
生きていてよかったなぁ|長澤靖浩
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