ラジカルに読む徒然草 (全)

ラジカルに読む徒然草

1991年 第3回 舟橋聖一顕彰青年文学賞 佳作
長澤靖浩 30歳 K高校国語科 教諭

(以下本文)


(1) 鈍き刀と醒めかえった意識 その1

小林秀雄は「よき細工は少し鈍き刀を使ふ」という兼好の言葉を引いて、 「彼(兼好)は利きすぎる腕と鈍い刀の必要とを痛感している自分のことを言っているのである。」と言う。

「物が見えすぎる目をいかに御したらいいか、これが徒然草の文体の精髄である。」というのである。

ただ困ったことに、兼好の鈍き刀で掘られた文体を、鈍いままになぞることしかできなければ、僕らは単なる、よくできた 「雑感集」に出会うだけだ。

そんなものはそこらへんに転がっているし、現代の作家だって書いている。しかし小林は、兼好は清少納言にも、鴨長明にも似ていない、空前絶後だと言う。

ではどのような点において空前絶後なのか。

それは、 「見る」 ことに於いてである。
「観る」と書いた方がいいかもしれない。

いや、 「止観」という仏教用語が、意味の上では最も正確かもしれない。

止めて、観る。何が止まるのか。
思考が止まるのである。
判断が止まるのである。
夢が、思いが、すべての囚われが止まるのである。

そしてただ「観る」 のである。

それが、有名な『徒然草』冒頭で語られる「境地」 だ。

しかし、兼好は鈍き刀を用いる。

彼はこれを「境地」 であるかのように、語らず、まるで自分はただの怠け者だと言わんばかりだ。

事実、そのとおり。

古来、この道を歩む者は例外なく怠け者である。

つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

完壁な文体であるが、敢えて意訳してみよう。

あるがままに身をゆだね、日は暮れてゆく。

「つれづれなるままに」という語の訳し方いかんで、その人の『徒然草』観が窺い知れると言えるかもしれない。

僕自身なかなか、ぴったりと来る語を見つけることができなかった。意外なことにヒントになったのは英語で書かれた歌詞であった。

ビートルズのLet it be である。

あるがままに身をゆだね

兼好は草庵に独り在って、何に心を惑わせるでもなく、ただただ存在に身をまかせているのである。

この訳ではニュアンスが出にくいのは、さびしいくらいに透きとおった兼好の心境だろうか。

日は暮れてゆく。

日暮らし(一日中)という言葉はもともと、日が上り、日が暮れてゆくところから来たものだ。
(「暮らし」という言葉と Life (生活)という英語を比べてみると、日本と西欧との文化の違いが窺えて、興味深い。

Lifeが「生きる」という人間の主体性に焦点のあたった言葉であるのに対し、 「暮らし」というのは太陽が暮れていくのであって、人間の側のことではない。
ただただ日々、自然がめぐっていくのであって、人はその自然の中に在るだけなのである。

あるがままに身をゆだね、日は暮れていく。 硯に向かって気を静め、

「硯に向かひて」 のところでは、硯に向かうという行為が、 自分自身と向き合い、静かに自分の中に入っていくという意味を持っていることを押えておきたい。

心の鏡(青空)に映っては、移っていく雲のような思いを、

「心にうつりゆく」 の 「うつり」は「移る」とも「映る」とも取れる。おそらくはその両方の意味を含んだ用法であるとするのが、適切なのではないか。

古来、仏教の世界では「心」は「鏡」にも「青空」にも喩えられる。

「鏡」はさまざまな物を差別なくそのまま映す。

けれども、鏡自体はそのなにものにも染まらない。

鏡の前から物が去ってしまえば、 一瞬たりとも、影は鏡の上に残ることはできない。

鏡はすでにまた、別の物を何の差別もなく映しているだけだ。

心もまた、さまざまな思考や感情を宿す。  

ところがそのひとつひとつの思考や感情は、心そのものではない。 

ひとつの考えが去って行っても、心はやはり、ある。 

けれども、その時新しく心に宿っている考えもやっぱり心そのものではない。 

心はすべての考えの背後にあって、ただ黙って、来ては去っていく考えを映しだしている鏡のようなものだ。 

あるいは、来ては去っていく雲を浮かべながらも、その背後に変わらず在る青空のようなものだ。 

なにものも拒まず、なにものにも染まらない。

「よしなしごと」は心に映り、移っていく。 

また別の 「よしなしごと」が心に映り、移っていく。 

では心そのものとはいったい何なのだろう。 

そのことに思いを馳せるならば、兼好ならずとも、気が狂いそうになる。心とは何か。 

「私」とはいったい誰なのか。

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