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江戸期仏教の国家宗教回帰

上記写真は、天草四郎らが立てこもった原城跡です。

『魂の螺旋ダンス』改訂増補版 読みやすいバージョン に加筆するための草稿です。完成すれば、マガジンに加筆します。既に購入した人には、加筆が反映され、お知らせが行きます。
この加筆が挿入される予定なのは、この部分です。

    江戸時代の長い安定期を通じて、仏教は檀家制度という形で、宗教というよりもむしろ政治的支配機構の末端の役割を担ってきた。

天下統一までの過程において、数多くの一揆の精神的支柱となってきた浄土真宗ですらその例外とはなりえなかった。(以上既出版より、加筆部分の直前)

(檀家制度についての加筆を書くのはここ)

以下加筆部分草稿(未完)


 それどころか、実に浄土真宗=一向宗こそが、檀家制度の担い手の代表として巨大化していった。日本において超越性宗教が再び国家権力に取り込まれていく際の、最も醜悪な姿を晒したと言っても過言でないのである。

江戸期仏教の国家宗教回帰

 では江戸期仏教の国家宗教回帰の過程を少しくつぶさに観ておくことにしよう。
 日本における檀家制度形成の萌芽は豊臣秀吉に始まり江戸幕府に引き継がれたキリシタン弾圧に見なければならない。
 唐の征服を企てていた豊臣秀吉はそのためのポルトガルの軍事協力を期待しており、元来キリシタンを容認していた。しかし、九州平定に到り、筑前に滞在していた折り、天台宗の元僧侶施薬院全宗起草と見られる「長崎におけるイエズス会の暴挙」を記した覚書を受け取る。(『天正十五年六月十八日付覚』)
 私はキリスト教の世界侵略については厳しい見方をする者のひとりである。しかし、この時点で施薬院全宗の記しているイエズス会の所業は、様々な史家の研究からは、少なくとも事実を拡大した讒言に過ぎなかったとされている。またスペイン、ポルトガルと日本の国力から見て、ただちにキリスト教を当時の日本にとって侵略の尖兵をして危険なものだったとするのには無理があった。
 だが、外国との商売はよいが、「神国日本」が異教に侵されることはままならんという神仏共同のキリスト教忌避の思想は、豊臣秀吉をして二転三転させながらも、いくつかの事件も相俟って、やがて秀吉の首肯するところになっていく。ただ、それはまだ弾圧として徹底したものではなかったのも確かである。そしてそれがそのまま江戸幕府に引き継がれていく。
 江戸幕府もその初期においてはキリスト教への徹底的な弾圧を行っていたわけではなかった。だが、キリシタン達が幕府の支配体制に組み込まれていくことを拒否していたことなどから、幕府は態度を硬化していく。そこに神仏界の抵抗運動、諸外国の貿易権の争いなども絡んできた。
 こうしてやはりいくつかの事件を経て、1614年江戸幕府は本格的な禁教令を公布する。これは臨済宗の僧侶金地院崇伝の起草により、徳川家康が朱印を付したもので、『伴天連追放之文』または『排吉利丹文』と言った。キリスト教を、神道、仏教、儒教の三教一致の敵と見る神学的なもので、思想的に幕府のキリシタン弾圧の屋台骨となっていく。
 こうして本格的な禁教令の公布された直後には、早くも京都において転びキリシタンを寺院の檀家にして、寺請証文を書かせた例が出た。(『日本宗教制度史の研究』)
 このような弾圧は、最初は京や大坂に勢力をもっていたキリシタンを退治することが目的であった。が、やがてすぐ家康は日本全国でキリスト教を改宗しないものを津軽に遠流にするように命じ、全国の大名に触書が出された。こうして各地の大名は領内の宗門改めを始める。
 こうして飽くまでもキリシタン弾圧のために始まった寺請制度であるが、それがキリシタンの疑いのある場合や地域に限らず、全日本人に義務付けられていったのは、島原・天草の乱以降のことだった。
 凶作が続いていた島原・天草の地域では年貢取り立てなどの苛政が熾烈を極めていた。そんな折り、島原の有馬村で天主像を表具していた角蔵・三吉の入獄事件が起こった。これを機に領主の苛政に限界を感じていた農民たちが立ち上がり、一揆に発展した。
 一揆の勢力は拡大し、島原藩の政治は一時的に麻痺し、一か月ほどに渡り、農民の天下が続いた。それに呼応して、天草でも農民が蜂起した。天草四郎時貞と呼ばれるカリスマ的な少年指導者を中心とする一揆勢力は、瞬く間に拡大し、一時は島原城に迫った。
 急報を聞いた幕府は大量の軍隊を派遣。天草・島原の一揆軍は合流して原城に立てこもった。幕府軍は幾度も大敗を喫し、ついに江戸滞在の諸大名にも帰国の命令が下り、原城制圧の軍は膨れ上がった。
 一六三八年、ついに食料も弾薬も尽きた原城は陥落する。が、その征伐に一二万四千人という兵力を動員した江戸幕府はキリシタンの根強い抵抗力を改めて認識にするに至った。天草・島原の農民はもとの土地に帰されたが、未納の年貢とこの年の年貢は全面的に免除するという懐柔策がとられた。
 これを機会に江戸幕府のキリシタン統制はより厳しくなった。キリシタンだけではなく、百姓一揆の脅威に対する警戒をさらに強めた。
 百姓一揆といえば、戦国時代には浄土真宗=一向宗による一向一揆が時の権力(戦国大名たち)を苦しめた。
 キリスト教と浄土真宗には多くの共通点あるが、そのひとつは信仰による生死を超越した救済(復活)であると言えるだろう。そういった「彼岸性」の強い宗教は、この世においては多くを期待せず、忍従の境地に甘んずるという方向性に流れる可能性をも有している。
 しかし、実のところ、彼岸性の徹底した信仰においては、この世の権力のすべてを超越した境地に自らを根源的にゆだねているともいえる。此岸において、不当な権力に苦しめられたとき、死をも恐れず徹底抗戦する姿勢はそこから生まれてくるということもまた可能なのである。
 浄土真宗もキリスト教もその鋭い両義性を有していると言わねばならない。
 戦国時代、一向宗は反権力の方向において大きな力を有していた。天下統一の過程において織田信長を最後まで苦しめたのは、どの戦国大名にも増して一向一揆であると言われるゆえんである。
 しかし、一五八〇年、石山本願寺における信長との闘いに一向宗が敗れた後は、本願寺は分裂させられ、一向一揆は歴史から消える。その後も南九州では、薩摩藩や人吉藩の特殊な事情から一向宗が嫌われ、隠れ念仏が生じたなどの史実はある。しかし、そのような例外を除いて、一向宗はむしろ転びキリシタンの寺請先として最も権力側の期待に応えることになったのは、大変皮肉なことである。
 なお、寺請先の宗派として実際に幕府に忌避され弾圧されたものには日蓮宗の不受不施派がある。命令によっても出仕を拒むこの派は権力の意に添わなかったのである。

 さて、キリシタンの危険性だけではなく、百姓一揆の可能性を根源より断ち切りたかった江戸幕府は、一六八三年日本人全員に寺請証文を義務づける。そのため、この時期に日本人は悉くいずれかの菩提寺と檀家の関係を早急に結ぶ必要が生じた。そうでないと身分保証ができない。
 信仰の有無は後回しである。とにもかくにも近隣の寺と寺檀関係を結ぶ必要がある。しかし、身近な村落に寺がない場合もあった。各村落に寺請証文を作成する寺が必要となったこの事態は仏教各派にとって、勢力拡大の一大チャンスとなった。
 こうしてたとえば村の小さな御堂などが次々と寺に昇格させられていく。近世の葬式寺の多くがこの時期に集中して成立したのはそのためである。
 幕府に規定された各宗派の本山は末寺に僧階、寺号、本尊などを布下し、支配下においていく。末寺は寺請によって檀家を獲得していく権利を得る代わりに、本山からの様々な経済的要求に応えなければならなかった。本山と末寺の階級制度の成立である。その経済的負担は末端においては檀家に転嫁されていくことになる。
 今日、日本に存在している葬式寺院の多くは一六〇一年から一七〇〇年の間に開創されている。(ただし由緒書きはもっと古くに見せかけている例は多い。)それは、天草・島原の乱(一六三七年から一六三八年)を挟んで寺請証文の作成が最も盛んに急がれた時期である。
 各宗派の中でもこの時期、最も多くの檀家を獲得したのは一向宗であった。それには世襲制など、安定した寺請先としての条件を多く備えていたという要因もある。だが、東西本願寺がこの時代の流れを積極的に教線拡大に利用した跡は、数々の史料に残る。たとえば本願寺資料集成の第一巻として活字化されている『木仏留』に基づき、熊本地方の西本願寺寺院の開創について調査してみよう。熊本地方の一向宗寺院に本山から阿弥陀如来像が布下された年月を調べると、全体のほぼ半数が一六四一年に集中していることがわかる。一六三七年から一六三八年の天草・島原の乱の直後、徹底したキリシタン弾圧が行われた時期に乗じて、いかに多くの寺院が寺請先として急ぎ開創されたか。あまりにもあからさまなその教線拡大の手法を見るとき、そのようにして開創されていった近世の葬式寺院と、それまでの曲りなりにも思想、信仰に基づく寺院を同じく「仏道の寺院」と考えるのは無理があるだろう。

(以下七月四日さらに加筆。これでこの節の加筆草稿脱稿。しばらくご意見を募った後、『魂の螺旋ダンス』改訂増補版本文に挿入します。)

 幕府の権威を背景に日本人全体が「宗門人別改帳」に登録されていなければ身分保証がされなかった江戸時代。その裁量「宗判権」を有していた寺院は絶大なる権力を末端の民衆に対してふるっていた。
 一六五〇年以降も過酷なキリシタン弾圧は続き、震え上がった民衆はますます旦那寺の支配に絡めとられていった。
 また、切支丹類族法度により与えられた権限を拡大解釈した寺院側は「宗門檀那請合之掟」を幕府の文書であるがごとく偽作し、キリシタン以外の人々の寺請の条件を強制していった。過去帳や戒名を道具に檀家は固定化され、差別化されていった。
 葬祭だけではなく、年次行事としての法事をスケジュールどおりに行い、その費用を負担することで信仰を証明しなければ、宗判権を盾に何をされるかわからない。
 時には檀家の女房が僧侶と不義密通しても離檀することもかなわず、夫は妻を責めるだけであった例なども報告されている。(「三田清源院文書」など)
 寺はいつでも檀家の身分を剥奪する生殺与奪の権を握っていた。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という人口に膾炙されていることわざは、今では一般論としてその意を薄めている。が、当時の民衆にとっては私たちの想像以上に字義通りに切実なものだったのに違いない。
 いずれにしろこのようにして成立した葬式寺院と庶民の檀家制度による繋がりは、現在から三〇〇年から三五〇年ほどしか遡ることができないことは押さえておくべきである。
 その後、明治の神仏分離令において、多くの寺が廃寺になった。が、檀家を持つ菩提寺の存在は認められ、むしろその経営は拡大していった。近年、人口の都会への流出や人々の考え方の変化により、葬式寺院は新しい波をかぶっていることは観察される。
 その際に重要なことは、外的な諸事情の変化によって持続困難に陥った葬式寺院について現代はむしろ根本から問い直すチャンスであるということではないだろうか。そのためには、葬式寺院の成立事情が、そもそも本書でいう超越性宗教としての仏教の本意から逸脱し、歪な形で固着したものだという点に着眼しておくことではないだろうか。

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