私だって恋がしたい 第4章(11)困惑
電話オペレーターという仕事はあえて苦情の吹きだまりを買って出るといった仕事である。
商品への質問や苦情をもった利用者はネット上で連絡先を調べ、よくある質問と答という名の膨大な項目にまず目を走らせるように指示される。答が見つからないので、係の人と直接話したいと考え、電話番号を探す。
だが電話番号は最後の最後の手段として敢えて見つかりにくいところに申し訳程度に記されている場合が多い。
やっと見つけた電話番号に電話をすると機械の音声が質問項目によって番号を選ぶように言う。よく聴いてこれに当てはまると思われる番号をプッシュする。
すると今度は
「ただいま、電話が大変混み合っています。そのままお待ちいただくか、しばらく経ってからお掛け直しください」
と機械に指示される。たどり着いたと思った瞬間に梯子を外すようなやり方だ。
「なお、お問い合わせの多い項目については本社ホームページのQ&Aのコーナーでもご覧になれます」
機械はさらにそう言う。そんなことはわかっている。そこにないから、面倒をかけてここにきたのではないか。
ここまでの時点で、利用者はかなりいらだっている。いらいらしながら待っていると、癒やしにもならぬつまらない音楽が流れ続ける。そして一分か二分ごとに何度も「ただいま、電話が大変混み合っています。そのままお待ちいただくか、しばらく経ってからお掛け直しください」とくり返すのだ。
やっと人間が出た頃には利用者はすっかり怒っている。
オペレーターの沙織は初めから罵声を投げかけられることもあった。
だが、何があっても、言い返すことはできない。こんな時、沙織は利用者のニーズを聴き取り解決しようとする一人の人間ではない。実は巨大な企業システムの中ではオペレーターは機械の部品に過ぎないのである。マニュアルに沿って物事を進める以外の何の権限も持っていないのだ。
「大変長らくお待たせして申し訳ございません。ではまずお客様のご利用者情報を確認させていただきます」
質問したいのは利用者なのに、沙織はまず利用者の情報を集めなければならない。利用者にしてみれば住所や電話番号や生年月日などはすらすらと言えるからいい。そこに暗証番号や製品番号、なんらかの登録内容などが含まれていると、利用者本人ですらわからないことがある。
「ではお確かめになってからお掛け直しください」
では、人に繋がるまでの今までの無駄な時間はいったい何だったのかと感じた利用者は思う。
「利用者が怒るのも無理はない」
沙織はいつもそう感じた。だが、自分の権限で特別に前に進むことなどできない。罵声を浴びせる利用者に対して
「たいへん申し訳ございません」
とくり返すしかないのだ。そして、この山をクリアしてもまだ最後の山がある。
「失礼ですが今お電話いただいているのはご利用者様ご本人でございますか」
沙織は「はい」と言ってくれと祈る。
「はい」という言葉に安堵しかけると「はい。家族のものです」と言うこともある。
「たいへんご不便をおかけしますが、ご利用者ご本人でないと、ご質問にお答えすることができかねます」
本音ではない。一人の人間として沙織は家族ならいいではないかと思っているのだ。しかし、マニュアルを逸脱することができない。万が一、それによって損害が生じてしまえば、すべての責任が自分に降りかかってくる。通話はすべて録音されている。
「電話オペレーターって人と顔を合わせることもないし、マニュアルどおりに事を進めればいいだけやからあれほど簡単な仕事はないよ」という意見もあった。だが、沙織にはそうは思えなかった。マニュアルを外れられないからこその苦痛が大きかった。
中国系の会社で電話オペレーターの仕事をしている従姉妹からこんな話を聴いたことがあった。
「勤めてみて、日本の会社ってなんておバカなマニュアル主義かってようわかったわ。私も客の立場の時、電話していつもイライラしてたから」
「どうちゃうのん?」
「とにかくすぐ人が出るようにしてるねん。それで質問を聞く。答える。それで終わりやねん」
「オペレーターがたくさん必要だけど、その人件費をちゃんとかけてるってこと?」
「まあ、それもあるかもなあ。そやけど、結果的にはそんなに変わらんと思う」
「でも機械の応対が殆どなくて、人がすぐ出るんでしょ」
「うん。そこで客の情報の確認とかしてると時間がかかるやろ」
「うんうん」
「そんなん何もせえへんで。いきなり、質問を聞いて答える。それで終わり。相手の名前も聞かへんで」
「え、名前も?」
「そりゃ、ケースによっては聞かなあかんときもあるけど。製品の使い方とかそんなんは秘密でもなんでもないし、相手の名前すらいらんやん」
「そうかあ」
「だからすぐ終わるし、次の電話をとれるから、人の数ってそんなに違わへんのとちゃうかな?」
「なるほど」
「マニュアルに沿って無駄なことばかりしてる日本の会社ってほんま、脳みそが固まってるんちゃうかと思うわ」
沙織はその話を聞いて拍子抜けする思いであった。沙織の会社に対する不満は日に日に募っていく。
それに加えて沙織にはやはり「自分は医療事務の資格を持っている」という自負があった。本来ならその仕事をするべき人間であったという悔しさがあった。
岡本がいつものように車で迎えに来て、ルームサービスの食事のおいしいラブホテルに直接、車を入れてくれた。
パネルで部屋を選び、鍵を片手でハンドリングしながら軽快にエレベーターに向かう岡本の後ろを沙織は松葉杖を用いて、体を左右に揺らしながら付いていく。
無邪気で優しい岡本の背中を見ていると、ふいに日々のつらさがこみ上げてきた。
部屋について、片隅に松葉杖を置く。岡本がさっそく沙織をベッドに押し倒し、キスしてくる。その時、自分でも唐突すぎると思えるような言葉が沙織の口をついて出た。
「なあ、いつ結婚してくれるん?」
「えっ」
岡本は目を丸くして顔をもたげると、沙織の目の中を覗き込んだ。
「私、今の仕事、合ってないと思うねん。そやから、はよ、お嫁さんになりたい」
素直に気持ちを伝えた。
しかし、その時の岡本の困惑したような表情は、沙織の予想しなかったものだった。
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