蝶の降る星 (11)
36階建てのホテル・クリスタルを愛海は仰ぎ見た。その屋上には四角形のくり抜きのデザインがある。
人に聞いた話では、春分の日に朝日が昇るとき、この四角形の真ん中に真っ赤な太陽がはまり込む。それはまるで極東のこの国のヒノマルと呼ばれる国旗に似ているということだった。権力と経済力の象徴。
今は西に沈もうとしている夕日に染められて、ビルの無数の窓がきらきらと耀いている。
自動扉を開けてエントランスホールに入ると、そのもうひとつ奥のガラスドアにはボーイが控えていて、愛海のために扉を開けた。みすぼらしいバックパッカーの出で立ちの愛海にもボーイは差別をしない。
しかし、その奥のフロント係は違っていた。眼鏡の奥から射るように愛海を見た。
「弓月愛海と言います。根本裕仁さんがお待ちの部屋へ行きたいのですが」
「マイクロップを」
愛海は左手をフロントの冷たい大理石の上に置いた。
係が読み取り機を翳す。
「照合したさかい、案内するわ」
彼はそう言うと、奥にいたボーイに顎で合図した。
「はい」とすぐに意図を察したボーイが飛び出してきた。
「こっちへ」
ここの天井にも無数の蝶が、巨大な一匹の蝶を形づくったかのように羽を広げているシャンデリア。その真下を通るとエレベーターホールに出た。
廊下の両側には10機ずつ計20機ほどのエレベーターが並んでいる。ボーイがボタンを押すとすぐにそのうちの1機の扉が開いた。
ボーイの後ろについて愛海が乗り込むと、彼は36と書いたボタンを押した。最上階の特別室?
エレベーターはシュンと音をたてて上昇し、ほんの数秒で愛海を天空の城に運んだ。エレベーターから足を踏み出すと大きなガラス張りの壁からは、オーサカの街が一望のもとに見下ろせる。
愛海はそのビル群の広がりに息を呑んだ。これがメガロポリスか。このような建物の広がりを見下ろすのは、愛海には初めての経験だった。
ボーイは回廊を二度曲がった。扉の前に黒服の男が立っているのが見えた。ボーイが男に敬礼すると、黒服は頷いてドアの電子キーにカードを翳した。
「では私はここで」
ボーイはエレベーターの方角に踵を返した。愛海は大きなリュックを背負ったまま、黒服に近づいた。黒服が少しほほえんだ気がした。
ドアの前にまで来ると、黒服がゆっくりとドアを開けた。愛海はそこに根本裕仁という男がひとりで待っているとばかり思っていた。防音仕様のために今まで聞こえなかったドアの隙間から奇妙なノイズの混じった読経のような音楽と、大勢の女たちの嬌声が漏れた。
愛海が覗くと、そこには十名はくだらない数の全裸の若い女たちがいた。その中央のソファに深々と腰掛けている男にしなだれかかるようにして、それぞれのやり方で媚びを売っている。
男の手には大きなワイングラスのようなものがあり、透明な液体が半分ほど残っていた。男は
「お、来たんか。君が十年に一度の逸品という噂の愛海やな」
満足そうにニヤリと笑った。と、同時に十名の女たちが一斉に愛海を見た。鋭いその眼光には嫉妬と呼び習わされているあの感情がこもっているように愛海は感じた。
女たちは誰もが美しかった。整形をしたサイボーグのような顔。完璧なボディライン。男という種族を喜ばせるためだけに生まれてきた存在のようにも見えた。
もしかしたら本当にアンドロイドかもしれない。
愛海にそう考えさせるほど、彼女たちの放つオーラは人工的だった。その彼女たちの存在に大音響で流れている電子音楽はほどよくマッチしている。ここは、人工的に作られた男のための楽園であった。
男? そうは言っても大多数の男は、下界の街で奴隷のように働いている。ここは限られた、おそらくは人工の一パーセントにも満たない男たちのためだけに作られた快楽の園なのだった。
「こっちへ来なさい」
裕仁が言った。愛海がおずおずと足を踏み出すと、女たちの眼光がさらに鋭くなったように見えた。両の耳から侵入するだけではなく、床板を通しても響いてくる音楽が愛海を痺れたような感覚にさせる。
魔界の扉が今開こうとしているのだ。愛海はなぜかそんな言葉を思い浮かべた。
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