アミタの観た夢(X-1)
(「アミタの観た夢」は、脳性麻痺の沙織が「健常者」と恋愛するのを夢見て生きる物語ですが、途中でふたりの他の人との出会いを経て、考えに波が生まれます。
その他のふたりの部分はいわば挿入的な小説のような形になります。
その部分をモデルの取材を経たばかりの今、先に形にしようとするのが、Xシリーズ、Yシリーズです。
最後には全部ひとつの小説に紡ぎます。)
奈津子が五歳のとき、両親が離婚した。まだ二六歳だった母は様々な仕事を掛け持ちしながら、奈津子を育ててくれた。
「お茶漬けしか食べさせてあげられなくてごめんね」
そう言って、母親が泣いていたのを覚えている。
奈津子は小学二年生になっていた。その日も、奈津子の母は夕食の用意を奈津子のために食卓に並べると、一緒には食べないで、そそくさと厚い化粧をして仕事に出かけた。バッグを手に出かけていくとき母親の顔は、アイシャドーの上にラメが煌めいて、奈津子の知らない人のようだった。
「冷めないうちに食べなさい」と言われていた夕食にはなかなか手がつけられなかった。奈津子は食卓には近づかず、部屋の隅の壁にもたれて「糸が切れる音」を聴いていた。
奈津子は、たくさんの蜘蛛の糸が、空の奥深くどんな光も届かない彼方に、果てしなく吸い込まれていくように繋がっているのを知っていた。きらきら光る数万もの細い糸がゆらゆら揺れるのをいつもはっきりと見ていた。
物心がついてから、その糸は一本また一本と千切れ始めた。
酒で真っ赤な顔になった父親が母親を殴りつけ、台所の隅にうずくまった母親が青く腫れた頬を押さえて顔を上げ、黙って父親を睨み返していたとき。
背広姿の知らない男の人たちが大勢、狭い部屋に上がり込んできて、父親の背中を押さえて連れ去ったとき。
あんなに恐ろしかった父の背中が、あのときほどみすぼらしく寂しげに見えたことはない。最後に振り返った目に精気はなく、半分落ちた瞼の奥でうつろに動いて奈津子を見た。父親が幼い奈津子にはじめて「助けてくれ」と言っているように見えた瞬間だった。
母親が父親から居場所をくらますために、最低限の荷物を持って、奈津子の手を引き、三人で暮らしていた小さなアパートを後にしたとき。
母親が夜の仕事を始め、奈津子が初めてひとりで夕食を食べ、冷たいふとんの中に入ったとき。
冷たいふとんが自らの体温で温まってくるまで、奈津子はじっと天井のオレンジ色の豆電球を見ていた。そのオレンジの灯りだけが、奈津子の生きる世界を微かに照らす最後のともしびだった。
宇宙の深奥から繋がっている糸の束はもうずいぶんやせ細っていた。十本の指で数えられる最後の数本が風に吹かれてたよりなく揺れていた。今日もまたそのうちの一本が切れる音を奈津子は聴いたのだった。
あんなに細い糸なのに切れるときには、麻縄が切断されるほどの大きな亀裂音が聞こえるのが不思議だった。
天井を見上げ、残り少ない数本の糸がゆらゆら揺れるのをぼんやりと見やりながら、奈津子はあの最後の一本が切れたとき、自分は死ぬのだと確信した。
自殺だろうと病だろうと同じことだ。最後の一本が切れたときには、いずれにしろ、この命は消えるのだ。