「加藤由美子論」長澤靖浩 「先生~」「最近の私の本音」加藤由美子
前書き
加藤由美子こと、芸名「いまきた加藤」が『たけしの元気が出るテレビ』のダンス甲子園で一世を風靡したのは、1990年から1991年頃である。
私も学校の先生として出演を依頼され、高田順二のインタビューに答えた。
そのころ私が勤務、加藤が在籍していた高校の文集よりいくつかのテキストをデジタル化し、転載する。
同時に今でもyoutubeで見られる動画などにリンクしておく。
残存する動画の中には後の政治家山本太郎がメロリンQだったころの様子を窺えるものもああり、興味深い。
加藤由美子まとめチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCVMfEjEVAzYU3C8PY8l-qrg/featured
メロリンQ(加藤由美子司会)
https://youtu.be/yaU-b6nKkVQ
「加藤由美子論」 長澤靖浩
『たけしの元気がでるTV』の加藤由美子特集に出演するにあたって、一部の教職員に、あるいは一部の生徒にすら、非難される可能性を考えなかったわけではない。だが、これに出演するかしないかということには、何かしら価値観のせめぎあいのようなものがあり、別れ道のようなものがあると思った。そし て、僕が出演を断ったとしたら、僕は自分自身を裏切って、「保身」することになると思った。
もっとも僕はこれまで、自分自身を裏切って「保身」したことは何度でもある。だが、TVに出るというこんな小さなプレッシャーをも避けようとする自分なのだとしたら、僕は完全に自分が自分でなくなった気がしたことだろう。
というわけで、僕は自分がいいと思ったものに「いい」というために出ることにした。そう、僕は加藤由美子は「いい」と思う。
もちろん、学校の枠の中では、さまざまな問題があるだろうし、枠の中での問題としては改めなければならない点が多いだろう。そもそもそうしなければ、彼女自身の卒業という目的が達成されない。その目的の達成はあくまでもルールに従ってめざすしかないのだ。あるいはもしそのルールに疑問があるならば、言論でそれを表現しなければならない。そういった点に関しては彼女がさまざまな問題をかかえていることは、確かだ。
しかし、少なくとも学校という枠の外では、彼女の「よさ」が発揮される。それは、瞬間的にありのままの自分の声を適確にとらえ、それを言動に表すことができるという「よさ」だ。テレビ出演の日、いっしょに自宅に向かう電車の中で、彼女はこう言った。
「わたしは今日もふだんの自分でいようと思う。自分の心の奥の声を聞いて、それをそのまま出そうと思う。ただ緊張したら心の声が聞こえなくなるかもしれない。それが怖いねん。」
彼女の言葉をそのまま覚えているわけではないが、ここに用いた単語はすべて彼女自身が用いたものである。彼女は「心の奥の声を聞く」と、そう言った。それに対して僕は
「緊張もそのまま認めたら、また次の声が聞こえてくるよ。」と言った。 その日の彼女は撮影中、いつもより少し緊張していた。が、それでもよくやったと思う。
そして僕が高田順二のインタビューに答える中で一番言いたかったのは、誰もが自分を守り、偽って生きているのに、彼女は100パーセント命を全開にしているところがすごいと言うことだ。そのことは往々にして社会の中ではマイナスの評価を受けるかもしれないけれど。
僕の師匠(バグワン)はいつもこんなことを言っていた。 「ありとあらゆる宗教と道徳が命に反対している。あなたが道の上で踊り出すと人々は非難し、愛し合い抱き合うと非難し、理由もなく幸福そうにしていると非難する。」
だが、師匠の修道場では、いつでもどこでも人は泣き、笑い、踊り、抱き合うことが許されている。加藤由美子は、それを自宅の前の公園でやった。まだ少しとんがっていて、不必要にやりすぎることがあるとしても、また逆に緊張して少し閉じてしまいゆがんでしまうことがあるとしても、彼女が繰り出す命のパワーは、確かに、何かを、感じさせる。
僕は命のエネルギーに根本的に賛成だ。
そこで彼女が芸名を「美女加藤にするか、加藤命にするか迷っている」と言った時、「加藤命の方が断然いいよ。」と言ったが、うら若き乙女としては「美女加藤」にも未練があるらしく、まだ思案中だということである。(1990年11月)
便利さを、いごごちのよさを、名誉を、社会にうけいれられることを、尊敬を選んではならない。自分のハートのベルを鳴らすなにかを選ぶのだ。どのような結果になろうとも、自分のしたいなにかを選ぶのだ。
(オショー・ラジニーシ)
穴ぼこだらけの船底さ 錨は二度とおろさない
(ザ・ブルーハーツ)
「先生~」 加藤由美子
先生へ
先生が書いてくれた文を読んで、すごく良かったと思った。
もうびっくりした。ちゅうもんをつけると私自身が学校で言われていることを書いてほしい。先生たちに遠まわしにTVのことをぐちぐち言われたり、(なんにも知らんくせに) TVの裏の私の気特ちみたいなものをかいて。いったいTVを見てる人たちはうらの労働をしってくれてんのか。
先生の気特ち、よく読んでいてつたわってきた。私と会話した時そのまんまの文章やからびっくりした。(ようおぼえてたな)私の前の息込みや気特ちがそのまんまよみがえってくる気がした。ほんとに、良かった。ありがとう。さすが先生やな。(1990年11月)
「最近の私の本音」 加藤由美子
なめられたくない、みょうに、全日本人が、私のことをなめてる気がしてしょうがない。
考えたらなんでTVに出て私がおどらなあかんねん、そら、最初の一回目は、かんぺきで終ったよ、けど何度も何度もTVに出て同じことさせられて これじゃ私の100%がおもろいから、つらそういってきてるんが見えた、自分も自分のTVで見ていっつもくやしい気特ちがした。
私はロボットじゃない人間や! 1人の人間してもっと物ごとをとらえてほしい。
TVなんか相手にせえへんくらいの人間になりたい。お金とかじゃないねん、自分自身もと本気出してやってんねんからそれにTVも、それなりにこたえてほしいねん。あの世界はどうしてもくやしい。自分で自分がかわいそうや。私もみんな一緒の人間やねんから、へんに、映して世間をごかいさすんやめてほしい。私はかしこくもないし、パカでもないねん。へんな見方すんのんやめて。私は1人の人間やねん。もう、日本人毎日、毎日道でも変化つけて見てるやつらやめろ! ただの人間があんなんやってるだけってなんでわからんの。
(1991年1月)