Tips of Buddhism

No.11
All yoga practices which did not have this philosophical aim were condemned by the Buddha.All the system of philosophy in India excepting Mimansa believed in yoga as a means for ‘transition out of the phenomenal into the absolute’.(hint,Mimansaミーマーンサー学派)
(Th.Stcherbatsky;The Conception of Buddhist Nirvana,p.63)

 
(訳)
この哲学的目的を有しないヨーガ(瞑想)実習はすべて、ブッダによって非難された。ミーマーンサー学派を除いたインドの全哲学体系は、瞑想は現象〔世界〕から絶対的〔世界〕へ超脱(ちょうだつ)する手段であると信じていた。
(解説)
昨今、世界的に流行している健康体操めいたものをヨガと称している。しかし、正しくはヨーガと伸ばして発音すべきである。更に、元々はヨーガとは、瞑想(めいそう)を意味した。語源的には、牛や馬を杭に「つなぐ」ことをいう。心を神に「つなぐ」=神と一体となる瞑想が、ヨーガである。御存じのように、インドは瞑想大国である。その中にあって、ミーマーンサー学派だけが、ヨーガを否定した。ミーマーンサー学派は、ヴェーダ至上主義で、ヴェーダの規定に従って、「絶対的世界」即ち悟りを得るべきだという。彼らは、人間の不完全さを説き、完全なるヴェーダに頼るしかないと主張する。
 仏教もヨーガを尊んだ。ヨーガは、三昧(さんまい)とか禅定(ぜんじょう)とか様々な呼ばれ方をしているが、瞑想すればそれでよいというわけではない。ここに書かれているように哲学を内蔵した瞑想が求められている。1例を挙げておこう。ダライ・ラマが属するゲルク派(dGe lugs pa)の開祖ツォンカパ(Tsong kha pa1357-1419)は、その主著『菩提(ぼだい)道(どう)次第(しだい)広論(こうろん)』Lam rims chen moにおいて、以下のように述べ、ヨーガ偏重の瑕疵(かし)を、鋭く、説いている。
 かの三昧(さんまい)(samadhi)〈=ヨーガ〉のみで〔満足〕するならば、〔三昧は〕外道(げどう)〈仏教以外の宗派〉とも共通するものであるから、彼等〔外道〕の道と同様に、たとえそれだけを修習(しゅうじゅう)しても煩悩(ぼんのう)の種子(しゅーじ)は断ぜられず、従って〔三〕有から解脱(げだつ)することとはならないからである。(長尾雅人『西蔵仏教研究』1954,p.101、ルビ・〈 〉内私)
ブッダ自身が、瞑想のための瞑想に懐疑的だった証拠も示しておこう。世界的学者水野博士は、以下のように仏伝から、修行中の釈尊(しゃくそん)の姿を伝えている。
 今この若い太子〔=悟る前のブッダ〕が自分に劣らない禅定(ぜんじょう)〔=ヨーガ〕の境地に達したのを見て、〔修行の最初に師事した〕アーラーラ仙は大いに驚き、太子を大切に取り扱うようになった。しかし釈尊はこの禅定にも満足することができなかった。なるほど、入定(にゅうじょう)している間は、心は無念(むねん)無想(むそう)となり、不安や苦悩を全く離れているであろう。しかしこの禅定をいでて、普通の精神状態に戻ると、そこにはやはり不安や苦悩の生ずることもあり、絶対の心の平安が得られたとはいえない。人生の不安や老、病、死への恐怖は依然として存在する。そこで太子は、この禅定もなお理想的のものではなく、自分が求めている真のさとりではないことを知り、この仙人の所を去ることにした。(水野弘元『釈尊の生涯』1960,p.63、ルビ・〔 〕私)
ここには、単純に瞑想一辺倒(いっぺんとう)となることへの戸惑いがあろう。問題点を鮮明にすれば、分別への対応である。分別の原語は、vikalpa(ヴィカルパ)で、英語ではintellect,reason,日本語では理性、知性に当たる。つまり、知性のない瞑想は是か非かということが、論点である。


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