新インド仏教史ー自己流ー
第10回 シャカ以降の仏教―大乗の教理確立・唯識―
その1
インド唯識の有様(ありさま)を探る手立(てだ)てとして、まず、ある日本の小説家の文を参考にしてみましょう。唯識に見せられた1人に、昭和の文壇(ぶんだん)を代表する作家、三島(みしま)由紀夫(ゆきお)(1925-1970)がいます。もう40年以上も前に、市ヶ谷(いちがや)駐屯地(ちゅうとんち)に乗り込んで、割腹(かっぷく)自殺を遂げた人物です。45歳でした。その三島の最後の作品『豊饒(ほうじょう)の海(うみ)』4部作は、「生まれ変わり」を主調(しゅちょう)低音(ていおん)とする不思議な小説です。三島は、この作品を書くにあたり、唯識を取り入れました。ネットで「三島由紀夫と仏教」と検索すれば、たちどころに、膨大(ぼうだい)な資料に出くわします。まずは、三島自身による唯識の解説を聞きましょう。
・ ・・かってあれほど若い自分を悩ました唯識論(ゆいしきろん)あの壮大な大伽藍(だいがらん)のような大乗仏教の体系へと、本多は今や、バンコックの残した美しい愛らしい一縷(いちる)の謎(なぞ)をたよりに、却(かえ)ってらくらくと帰っていけるような心地がした。さるにても唯識は、一旦(いったん)「我(が)」と「魂」を否定した仏教が、輪廻(りんね)転生(てんしょう)の「主体」をめぐる理論的困難を、もっとも周到(しゅうとう)精密(せいみつ)な理論で切り抜けた、めくるべくばかりに高い知的宗教的建築物であった。その複雑無類の哲学的達成は、あたかもあのバンコックの暁の寺のように、夜明けの涼風(りょうふう)と微光(びこう)に充ちた幽玄(ゆうげん)な時間を以(も)って、淡(たん)青(せい)の朝空の大空間を貫いていた。輪廻と無我(むが)との矛盾、何世紀も解き(とき)えなかった矛盾を、つひに解いたものこそ唯識だった。何(、)が(、)生死(しょうじ)に輪廻し、あるいは浄土(じょうど)に往生(おうじょう)するのか?一体何(、)が(、)?…そもそも「唯識」という語を始めて用いたのは、インドの無(む)着(じゃく)(アサンガ)であった。無着の生涯(しょうがい)は、その名が六世紀初頭に金剛仙論(こんごうせんろん)を通じて支那(しな)へ伝えられたときから、すでに半ば伝説に包まれていた。唯識説はもと、大乗阿毘(アビ)達磨(ダルマ)経に発し、のちに述べるように、アビダルマ経の一つの偈(げ)は唯識説のもっとも重要な核(かく)をなすものであるが、無着はこれらをその主著「摂(しょう)大乗論(だいじょうろん)」で体系化したのである。因(ちな)みにアビダルマは、経(きょう)・律(りつ)・論(ろん)の三蔵(さんぞう)のうち、「論」を意味する梵語(ぼんご)であるから、大乗アビダルマ経とは、大乗論経といふに等しい。われわれはふつう、六感といふ精神作用を以って暮らしている。すなわち、眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い)の六識である。唯識論はその先に第七識たる末那(まな)識(しき)というものを立てるが、これは自我、個人的自我の意識のすべてを含むと考えてよかろう。しかるに唯識はここにとどまらない。その先、その奥に、阿頼耶(あらや)識(しき)という究極(きゅうきょく)の識を設想(せつそう)するのである。それは漢訳に「蔵(ぞう)」といふごとく、存在世界のあらゆる種子(しゅうじ)を包蔵(ほうぞう)する識である。生は活動している。阿頼耶識が動いている。この識は総報(そうほう)の果(か)体(たい)であり、一切の活動の結果である種子を蔵(おさ)めているから、われわれが生きているといふことは、畢竟(ひっきょう)、阿頼耶識が活動していることに他ならぬのであった。その識は瀧(たき)のように絶えることなく白い飛沫(ひまつ)を散らして流れている。常に瀧(たき)は目前に見えるが、一瞬一瞬の水は同じではない。水はたえず相続(そうぞく)転起(てんき)して、流動し、繁(しぶ)水(き)を上げているのである。無着の説をさらに大成して「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」をあらわした世親(せしん)の、あの、「恒(つね)に転ずること暴流(ぼる)のごとし」といふ一句は、二十歳の本多が清(きよ)顕(あき)のために月(げつ)修寺(しゅうじ)を訪れたとき、老門跡(ろうもんぜき)から伺(うかが)って、そのときは心もそぞろながら、耳に留(とど)めておいた一句であった。(暁の寺『豊饒の海』(三)、昭和52年、新潮文庫、pp.132-133,標記・ルビはほぼ私)
三島の唯識理解を検討してみましょう。通常の6つの精神活動、つまり5感と意識の他に、第7意識として未那(まな)識(しき)、第8意識として阿頼耶(あらや)識(しき)を説いていますが、これは唯識の定番解説です。阿頼耶識は、現代風に言えば、無意識とか深層意識で、普段はその存在には、気づきません。ここに感覚や意識の情報をインプットするのです。唯識では情報を種子(しゅうじ)と呼んでいます。インプットされた情報は、阿頼耶識に保存されます。そして、生まれ変わった時も、阿頼耶識だけはそのまま次の生存状態にも受け継がれ、情報も残されるのです。すなわち、輪廻転生とは阿頼耶識が生まれ変わることなのです。ちなみに、阿頼耶識の原語は、アーラヤ(alaya)識です。例えば、ヒマラヤは(hima-alaya)で「雪蔵」と呼ばれます。つまり「雪を貯めている所」という意味です。阿頼耶識も同じ、アーラヤに由来します。これとよく似ているとして引き合いに出されるのが、ユングという心理学者の集合的無意識です。ウイキペディアから、説明を引用してみましょう。
ユングは、集合的無意識に様々な元型(げんけい)の存在を認めたが、それらは最終的に自己(Selbst)の元型に帰着すると考えた。自己の元型は心(魂)全体の中心にあると考えられ、外的世界との交渉(こうしょう)の主体である自我は、自己元型との心的エネルギーを介しての力動的な運動で、変容(へんよう)・成長し、理想概念としての「完全な人間」を目指すとされた。(Wikipediaより、ルビ私)
これを見てもピンとくるわけではないですが、日常の心の底に潜(ひそ)んでいるもう1つの心と考えて下さい。とにかく、唯識では、合計して、8つの心、あるいは意識を説いています。先ほども述べましたが、三島はこの点は正確に捉えているようです。さらに、唯識の完成者を無(む)着(ちゃく)・世親(せしん)に帰している点も大方(おおかた)間違ってはいません。ただ、学界では、開祖を弥勒(みろく)(マイトレーヤ、Maitreya)としています。無着は、瞑想(めいそう)中、兜率天(とそつてん)という仏の住む場所に至り(いたり)、
弥勒から唯識を教えられた、という伝承(でんしょう)が伝わっています。この弥勒が実在の人物なのか否かも決着がついていませんけれど、一応、唯識の開祖(かいそ)は弥勒とするのが定説(ていせつ)です。