Tips of Buddhism

No.21
The mysterious silence of the Buddha on the most fundamental question on Metaphyisics led him to probe into the reason of that silence.Was the Buddha agnostic as some of the European writers on Buddhism believe him to be?
(Th.Scherbatsky;Conception of Buddhist Nirvana,p.14)

(訳)
形而上学について、すこぶる基本的な疑問には、ブッダは、神秘的な沈黙(無記(むき))をしたが、その沈黙のわけを露わにせねばならなかった。仏教を語るヨーロッパのある者達が信じたように、ブッダは、不可知論者なのだろうか?
 
(解説)
 訳文の( )内に無記と補った。無記とは「言葉にしない」という意味である。この文章は仏教の実践的傾向を言う場合、必ず、引き合いに出される経典を念頭に置いている。「毒矢のたとえ」として有名である。そのあらましを、解説する文を引用しておこう。
 先の『毒箭(どくせん)経(きょう)』に話を戻そう。それによれば、哲学議論好きの青年修行者マールンキャプッタは、釈尊が、〔「死後の世界は存在するか」などの〕例のたぐいの質問に一切答えないことに不満を抱き、釈尊にその理由を問うた。そこで釈尊は、毒矢に射られた人の話を譬(ひ)喩(ゆ)として語った。毒矢に射られた人が、それを抜こうとする人を制して、だれがこの矢を射たか、その者はどこの出身か、あるいはまた、その矢はなにでできているか、矢羽はなにでできているか、弓はなにからできているか、などなど、これらを自分が知るまでは、けっして矢を抜いてくれるなといったとする。これをどう思うか。まず必要なのは毒矢をいちはやく抜くことである。それと同じように、迷妄(めいもう)、煩悩に身心をさいなまれている人は、ろくな結論もでない議論に心を奪われている暇があるならば、さっさと迷妄、煩悩を一掃(いっそう)するような修行に専心すべきである。以上がその概要である。一般には、この経典は、理屈、理論よりも実践修行が大切であることを説いたものだといわれる。しかし、この解釈は、いささか危険な面をもっている。それは、理論を極端に軽視する傾向(大乗仏教において顕著となる)を生み出すということである。釈尊は理論を軽視しなかった。むしろ、理論、理屈をよく理解し、頭に留めておかなければ、正しい修行は不可能だとした。釈尊が不可としたのは、経験的な事実にもとづかない議論、理論のための理論、理屈のための理屈にかかずらうことであった。…世界にたいして、かならずしもなげやりというのではないとはいえ、根本的にはどうでもよいという態度をとっていた。ニヒリストにしてプラグマティストたる釈尊は、原則固執主義を厳しく戒めた。場合によっては、かれの態度は、ずぶずぶの妥協主義、無原則主義であるかに見えることがある。(宮元啓一『仏教誕生』1995、ルビ私)
仏教が実践主義なのか、理論重視なのかは、実は、学者によっても意見は異なる。実践を重要視する時、上のような経典はよく引用される。
 忘れてはならないのは、現在残っている1番古い経典でも、釈迦の自筆ではないという点である。我々は、残されたものから、釈迦の考えを推測しなければならないのである。実践か?理論か?という問題も同じ立場にある

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