Tips of Buddhism

No.53
At the time of the Meiji Restoration,Shintoism and Buddhism were divided,but the attempt to make Shintoism the national religion ended in failure.Since these two religions developed interrelatedly and mutually supplemented each other,it could not be expected that they could be distinguished in the actual life of the people.(Shoko Watanabe,Japanese Buddhism-a critical appraisal-Tokyo,1964,p.58)
 
 
(訳)
明治維新の時代、神道と仏教は、分離された。しかし、神道を国家宗教とせんとする企ては、失敗に帰した。その2つの宗教は、お互いに関係しあいながら発展し、相互に補完し合っているので、国民の実生活上、それが区別されるとは期待出来ないのである。
(解説)
誰しもが、耳にしたことのある「廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)」という仏教排斥(はいせき)運動が、明治期に起こった。このような時代背景から、村上専(むらかみせん)精(しょう)(1851-1929)の「大乗(だいじょう)非仏説論(ひぶっせつろん)」も生み出されたのである。村上の前に、東大で、最初に「印度(いんど)哲学」の講義を行ったのは、実は、曹洞宗の原担山(はらたんざん)(1919-1892)という人物である。この人も、破門(はもん)の憂き目(うきめ)に会い、後に、僧籍に復帰した。原湛山の話を少し紹介しておこう。
 では、〔当時の東大総長〕加藤(かとう)弘之(ひろゆき)はなぜ担山に白羽(しらは)の矢(や)を立てたのであろうか。推察される第一の理由は、加藤が七九年以前に担山の名を知り、合理的ないし科学主義的なかれの仏教観の基本的な特徴について理解し、共鳴するところがあったと思われることである。すでに述べたように、加藤は担山から六九年、〔原担山の著書〕『時得抄(じとくしょう)』を贈られている。さらに加藤は、その立場からして担山の維新後(いしんご)の仏教界の変革を志向する活発な諸活動についてもある程度耳にし、好感をもっていた可能性もある。これらが担山を講師に招く下地となっていたと見られるのである。第二には、加藤は仏教そのものに一定の評価を与える一方、当時の現実の仏教界に対してはかなり厳しい批判的な見方をしていたことが窺が(うかが)われる。そして、それゆえに、仏教界の正統の中に講師を求めようとは考えなかったのではないか、ということである。この点で、担山が七二年に曹洞宗の僧籍を失っていたことはかえって幸いであったかもしれない。(木村清孝「原担山と「印度哲学」の誕生―近代日本仏教史の一断面」『印度学仏教学研究』49-2,平成13年、p.541、〔 〕・ルビ私)
明治は、価値観が揺れ動き、仏教を中心に研究しても、成果は期待出来る、興味を持ってもらえると幸いである。昨今は、このような話題にも、優れた外国の研究者が、現れるようになった。ブラジル人のオリオン・クラウタウ(Orion Klautau)氏は、中でも、一際(ひときわ)目を引く考察を示している。彼の著書から、さわりの1節を引用しておこう。
「日本仏教」とは何か。それは「日本における仏教」を意味するのか、「日本的な仏教」を意味するのか。この疑問は、日本語に触れ始めた一○代の筆者にすでに存在していた。…近世および近代になり「日本仏教」は「どうなったか」ということに好奇心が湧き、入門書などに登場する「近世」以降の記述に注目するようになった。そこで「近世には仏教が衰微(すいび)の道を歩んだ」、「近世において僧侶が堕落(だらく)した」、などの記述に出会ったことは、読者の予想するとおりである。それを懐疑的(かいぎてき)に捉えた筆者は、「よし、研究するなら近世日本の仏教がよい」と決めた。…(オリオン・クラウタウ『近代日本思想としての仏教史学』2012,p.13、ルビ私)


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