仏教余話
その149
ところで、同じ唯識に対するものなのに、かくもイメージが異なる例を示しておきたい。唯識思想の重要な論書に『大乗荘厳経論』Mahayanasutralamkara(マハーヤーナ・スートラ・アランカーラ)というものがある。本書について、ある研究グーループは、次のようにいう。
『大乗荘厳経論』は、仏教教団内で保守・主流の立場にある声聞乗の人たちから、大乗は仏語ではないという非難〔=大乗非仏説論〕にさらされる状況下で著述された。しかし、その著述者である無着、世親の立場は同じではない。第I章「大乗の確立」の解釈の困難さは、そのような中にある無着、世親の立ち位置の微妙な違いも影響しているのであろう。さらには仏語が、すなわち大乗がどのように起こったのかというメカニズム、そしてどのように発展したのかという歴史が必ずしも明らかではないということがより問題を複雑にしているのである。…大乗仏語論、仏説論の歴史は古い。しかし、その解明の道は未だ途上にある。今、確実に言えることは、この『大乗荘厳経論』第I章「大乗の確立」は、大乗を研究する者にとっての必読の書であるということである。能仁正顕編集『『大乗荘厳経論』第I章の和訳と注解-大乗の確立―』2009,pp.31-33)
このようにこの書を大乗確立のための偉大な書と賞賛するかのような、評価があるかと思えば、同じ書物を糞味噌にけなす研究者もいるのである。袴谷憲昭氏は、こう述べている。
本論典は、実修行派〔=唯識派〕の代表的文献であるが、伝統的に積み上げられた事実を全て容認し、それに迎合する形で論理を追認してゆくタイプの論述の好例でもある。その意味で見かけは煩瑣だが、本論典を分析することによってその論理の絡繰りを見破ることができるなら、研究の興味も倍加しよう、いずれにしたところで、本論典は、その研究者が、事実主義を取るにせよ、論理主義を取るにせよ、仏教の批判的研究の格好の試金石となるであろうことは間違いないのである。(袴谷憲昭・荒井裕明 校註『『大乗荘厳経論』新国訳大蔵経 瑜伽・唯識部12』,1993、p.47)
いずれの評価を是とするかは、個人の判断を待つしかない。ただ、唯識に対する昨今の評価は、どれも「素晴らしい」というプラス評価であることを思えば、唯識の専門家である袴谷氏の提言には耳を傾けるべきかもしれない。私には、大分以前見た宮元博士の言葉が脳裏に浮かぶのである。「仏教研究者は、仏教信者であってはならない」という趣旨の言葉であった。