性相学

〈性相学について〉
以下の文は、文学的観点を取り入れて、論じたものである。
  その1
ローゼンベルグ(O.O.Rosenberg,1888-1919)というロシア人がいた。彼は、明治の終わりから大正の初めにかけての4年間、日本の伝統的『倶舎論』(くしゃろん)研究を学んだ。残念ながら31歳で夭逝した。教理的な仏教学とは、少し、異なった視点から、彼の学んだ学問を伝えてみたい。伝統的『倶舎論』研究は、法相宗(ほっそうしゅう)という宗派がもたらしたものである。その学問を性相学(しょうぞうがく)と呼ぶ。そこでは、『倶舎論』をベースにして、『成唯識論』(じょうゆいしきろん)に至るというコースが一般的であった。『成唯識論』は、三蔵法師として有名な玄奘がまとめた作品である。ローゼンベルグも当然、同作品を最終目標とした性相学のことは、念頭にあったはずだ。中国判唯識が性相学であると、考えておけば大過ないと思う。少なくとも、明治時代までは、各仏教系大学でも、性相学と呼ばれる学科が存在していた。その例を、舟橋(ふなばし)水(すい)哉(さい)という学者のエッセイから見ておこう。
 四月二十一日快晴。此日、性相学科生数名を引具(いんぐ)して、見学のため御室(おむろ)付近の、倶舎(くしゃ)に関係ある二三の寺院を探るべく試みた。…先ず太(うず)秦(まさ)の広隆寺(こうりゅうじ)を訪問した。こゝへは十二三年前一度参詣(さんけい)したことがあるが、昔ながらの奥ゆかしい寺であって、どことなくよいところがある。…〔ほどなく、他の寺院に移動した。そこで昔活躍した僧の墓を見つけた。〕湛(たん)慧(ね)律師(りっし)、現今のあの墓の状態、誠に今昔(こんじゃく)の感に堪(た)へられず、知らず念仏数編、口の中で称(とな)へさせて貰(もろ)うたことである。(舟橋水哉「倶舎を漁る記」『倶舎の教義及び其歴史』昭和15年所収、pp.257-261, ルビ・〔 〕内1部表記を改変)
さて、日本における性相学の中心は、興福寺である。先年大人気を博した、阿修羅像は、興福寺にある。同寺について、『源氏物語』の研究者丸山キヨ子氏は、以下のようにいう。
〔『源氏物語』の〕物語作者の時代、興福寺がどのような存在として平安貴族の中にあったか、一瞥しておきたいと思う。いうまでもなく、興福寺は藤原一族の氏寺であり、物語作者もその末裔であった。何よりも、彼女が仕えた道長は、氏の長者として興福寺とは格別に密接な関係にあったはずである。(丸山キヨ子『源氏物語の仏教―その宗教性の考察と源泉となる教説についての探求―』昭和60年、p.326,〔 〕内私の補足)
丸山氏は、興福寺の仏教、即ち性相学について、その痕跡を『源氏物語』の中に、詳しく探るが、ここではそこまで立ち入らない。今は、駒沢大学で長く、性相学を講じた大田久紀氏のエッセイを紹介しておこう。
 申楽〔さるがく〕を昇華させて、能を完成させたのは、観阿弥(一三三四―一三八四)・世阿弥(一三六三―一四四二)父子だといわれる。観・世父子によって能が完成された場所は奈良盆地である。その頃、大和には、いわゆる大和申楽の四座があった。結崎〔ゆうざき〕座(観世)・外山〔とび〕(宝生)・円満井〔えんまんい〕(金春)・坂戸〔さかど〕(金剛)の四座である。四座は、それぞれ社寺に所属していた。田楽も申楽も原初は、天下泰平・五穀豊穣を祈る祭祀の行事であった。観・世父子の所属する結崎座は、春日大社・興福寺との関係が深い。世阿弥の『花伝書』に「南都興福寺の維摩会(ゆいまえ)に・・・食(じき)堂にて舞延年〔まいえんねん〕あり。」とあり、『申楽談義』にも「一乗院にて、円満井・魚崎・両座のとき・・・」という文章がある。一乗院は興福寺の一院であり、将軍義満が、春日大社参詣のときの宿所は一乗院であった。そこで申楽が上演されたのである。春日大社は藤原氏の氏神であり、興福寺は氏寺である。興福寺は、法相宗であり、法相宗の教義が唯識である。・・・奈良の仏教は、むろん法相宗のみではない。華厳(けごん)・律(りつ)・三論(さんろん)・倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)などの仏教が各寺院で研究されていた。その中で法相宗興福寺の勢力は大和平野を支配していたといってよいくらいひときわ大きいものであったのである。観・世父子は、その傘下に身を寄せていたことになる。(大田久紀「能と唯識(上)」『書斎の窓』321,1983・2月号、pp.75-76,( )内の振り仮名は原文ではルビである、尚〔 〕内は私の補足)
太田氏は、これだけ興福寺と深い関係にありながら、能には性相学=唯識の影響が見い出しにくいことを疑問視して、次のようにいう。
 大和平野の中で申楽から能へと脱皮していった能の作者達の胸の中には、興福寺の仏教―唯識は、どれほどの影を落としていたのであろうか。あれだけ縦横に仏教のことばを使い、思想・信仰を駆使した能作者達は、なぜ唯識についてほとんど触れず、また語ろうとしないのであろうか。実際に謡曲〔ようきょく〕にあたってみても、唯識仏教をはっきり表わす独自の用語には、まったくといってもよいくらい出会わない。わずかに『釆女』〔うねめ〕『野守』〔のもり〕に〔5つの唯識の実践法である〕「五重唯識」という語が使われているくらいのものである。「五重唯識」は、法相宗・唯識仏教の最も重要な修行を表わす語であり、しかも他の分野の仏教では使われない専門用語であるから、まさしくそこに唯識仏教を読みとることはできる。しかし使われているのは言葉だけであって、内容には触れていない。奈良に育ち、興福寺と深い関係を保ちながら、なぜ能は唯識の語をみせぬのであろうか。京への進出を最後の目的とした能の作者達は、意識して唯識を避けたのであろうか。それともその責任は、能の作者達にはなく、仏教側にあったのであろうか。すなわち、その頃、法相宗に法を宣揚するだけの人がいなかった。あるいは、一般の人に向かって法を説く機会や習慣がなかった。そういう状態を仮定することもできる。たしかに、南都は治承四年(一一八〇)平氏の手によって焼きはらわれ、興福寺も東大寺も伽藍も文化財もすべて灰燼に帰した。それは大きな痛手であったにちがいない。その頃は、説法どころのさわぎではなかったかもしれない。しかし能の完成の時代までには百数十年経っているのであるからその間に伽藍も再興され、文化的には日本唯識最大の成果である〔貞慶(じょうけい、1155-1213)が中心となった〕『唯識同学鈔』〔ゆいしき・どうがくしょう〕も編纂されている。世阿弥と同時代には、興福寺東院で、法相宗の根本聖典である『成唯識論』の綿密な研究が行われている。説法どころではなかった、人がいなかったとはいえぬように思う。(大田久紀「能と唯識(上)」『書斎の窓』321,1983・2月号、p.78,〔 〕内私の補足)
太田氏は、このように状況証拠を連ねて、能と性相学の関連を示唆したのである。更に、氏は、自身の憶測として能と性相学を結び付ける。以下のようにいう。
 私の憶測とは、謡曲の字句の上では、ほとんど唯識の影響を認めることはできないが、能の構成という全体像の上からみると、唯識の強い影響が認められるのではないかということである。・・・その一つは、シテを前と後と真ッ二つに分けて一つの曲を構成していることである。能は、シテ中心の演劇である。ところが、多くの曲は、そのシテが前後二つにわけられている。前シテは、実際にそこに生活をしている現世の人間であるにもかかわらず、一度引いて再び登場してくる後シテは、遠い過去の人間であったり、死後地獄に苦悶する人間であったり、深層にひそむ怨恨や嫉妬に狂う人間であったりする。時間・空間を超越した人間の神秘が描かれることが多い。・・・虚実・表裏一体の人間が、そこに見事に総合され統括されて描かれきっている。・・・唯識は、人間を二つに割った。自分を省察し反省すれば、認識可能な自分と不可知の自分、とに二分することができる。不可知の自分とは、深層の自分である。一人の人間には、自分で自覚し認識しうる表層の自分と、認識することの困難な深層の自分とがある。そういう重層的な人間像をつきつけてきたのが唯識仏教であった。・・・人間を二分して捉えるという思い切った演劇的構成のヒントと論理的依り所とは、唯識仏教の無意識裡の影響のうちに醸成されていった。そう考えるのは、あまりに憶測に過ぎるであろうか。(大田久紀「能と唯識(上)」『書斎の窓』321,1983・2月号、pp.79-80)
太田氏の憶測は、エッセイの続編で、更に、深まる。氏は、次のようにいう。
 能は、唯識の術語や思想をそのまま直接的に使うことは少なかったが、唯識の側からみると能全体の構成の上に暗黙の影響とおぼしきものを想定することができる。極度に抑制された演技や作り物、それに基く演出も、唯識を暗黙裡に理論的根拠としていると、唯識の側からみると憶測することもできるのである。抑制された演技や演出は観衆の想像力に全面的に依存することである。そして人間の想像力を積極的に肯定する仏教が唯識だからである。・・・とにかく、普遍性も客観性も持たぬ主観的意識活動を積極的に位置づけていることは唯識の非常に大きな特徴ということができるのである。そんなわけで、唯識の方角からみると、観衆の想像力を全面的に信頼する能の演出の根底に、幻想や想像力を位置づけた南都の唯識の影をみる思いがするのである。(大田久紀「能と唯識(下)」『書斎の窓』3231983・4月号、pp.41-44)

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