新インド仏教史ー自己流ー

その6
ナーガセーナの意図は、見えてきたと思います。他でも五蘊(ごうん)という言葉を耳にしたことがあるでしょう。五蘊とは、人間を成り立たせているものです。上で「5つの組成(そせい)要因(よういん)」として示されています。つまり、人間を人間たらしめているのは、5つの部品の集合なのであると主張しているのです。車も色々な部品が集合してはじめて車として機能します。ナーガセーナは、「人間も車と同じく、部品の寄せ集めに過ぎない」と王に伝えたのです。単なる部品の集合体に対して、世間では様々な名を付けるけれど、名前だけではそのものの真相を伝えきれないだろうと述べています。仏教では無我をよく説きますが、インドにおいて我とはその人の魂、本質を言います。これこそ本人証明の基本です。ですが、仏教では我、すなわち、本人証明を否定します。所詮(しょせん)、部品の寄せ集めで、我はあり得ないと考えているのです。
 こうして、『ミリンダ王の問い』を見てきましたが、様々な疑問もわきます。本当に伝えたいことは何なのでしょうか?私もわかりません。今は、経典の内容に直接触れたことで、よしとしておきましょう。最後に、ミリンダ王が仏教に関心を抱くにいたる背景を見ておきましょう。中村元氏は、次のように述べています。
 メナンドロス王が仏教に帰依(きえ)したということは、単に彼一(いち)個人(こじん)の主観的(しゅかんてき)意向(いこう)とか、伝道者(でんどうしゃ)としてのナーガセーナの卓越(たくえつ)した才能にのみ帰(き)すべきではない。それは当時のインドにおける大きな精神的潮流(ちょうりゅう)の一つのあらわれであると解さなければならない。・・・古来バラモン教の勢力の根強く存らざるをするインド社会においては、外来(がいらい)民族としてのギリシャ人がもしもインドの宗教を奉(ほう)じるとしたならば、どうしても仏教によらざるをえなかったのである。バラモン教の立場からみると、ギリシャ人はたとえいかに高い文化をもっていたとしても、夷狄(いてき)にほかならない。彼らは蔑視(べっし)される。(中村元『中村元選集[決定版]第7巻 インド史III』1998年、pp.117-119,ルビ私)
インドの宗教、すなわちバラモン教の排他性が、ミリンダ王を仏教に向かわせたようです。


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