新インド仏教史ー自己流ー

その4
 さて、先に、サーンキャとヨーガが姉妹学派であると説明しました。この他にも3グループの姉妹学派があり、それがインドの正統派の宗派です。六派哲学と言われます。
1.サーンキャ派・ヨーガ派、2.ニヤーヤ派・ヴァイシェーシカ派、3.ミーマーンーサー派・ヴェーダーンタ派、6つの派があり、3グールプに分けられます。概説書ではよく見る説明です。第3グループは、正統派中の正統です。なぜなら、ヴェーダ(Veda)というインド最古の文献を奉じる派だからです。少し昔の概説書から、両派に対する記述を引用してみましょう。
 ヴェーダ聖典は祭事部(カルマ・カーンダ)と知識部(ジュニャーナ・カーンダ)とに大別され・・・前者における祭式に規定や意義を考察するのがミーマーンサー学派であり、後者に見られる諸教説を統一的に解釈しようとするのがヴェーダーンタ学派である。(長尾雅人『世界の名著 1 バラモン教典・原始仏教』昭和54年、p.50)
これらインドを代表する正統派の中でも、ヴェーダーンタ派が特に重要です。先の概説
書にもこうあります。
 ヴェーダーンタ学派は、六派のなかでも最も重要であり、知的なヒンドゥイズムとして、今日まで脈々と人々のあいだで生きている。(長尾雅人『世界の名著 1 バラモン教典・原始仏教』昭和54年、p.50)
6派は、古代インドの宗派です。今日、我々が目にするインドの宗教はヒンドゥー教と呼ばれています。6派を継承して発展したものです。その6派の中で、今でも勢力を誇っているのがヴェーダーンタ派なのです。前に触れた現代ヨガの源ハタ・ヨーガは、サーンキャ派から移って、ヴェーダーンタ派の教義を重んじていますから、その教えはヨガの中にまだ生き続けていると言ってもよいものです。西欧世界にヨガを紹介した、ヴィヴェーカナンダもヴェーダーンタ派の教義に則ったという趣旨の説明がウイキペディアにもありましたね。同派には、色々流派がありますが、1番影響のあったのは、シ
ャンカラ(Sankara,8世紀)という人の「不(ふ)二一元論(にいちげんろん)」です。以下のように説明されています。
 「不二一元論」とは、二元性を離れ、あらゆる限定をこえた最高原理ブラフマンが唯一の実在で、多様性をもった現象世界は仮現にすぎないという思想である。(長尾雅人『世界の名著 1 バラモン教典・原始仏教』昭和54年、p.51)
少しややこしいですけれど、この世にあるすべてのものは、夢・幻のような仮の存在に過ぎない。真の存在は、神のようなブラフマンと呼ばれるものだけである、と述べているのです。ここに仏教的な思想を見る人もいるでしょう。事実、シャンカラは「仮面の仏教徒」と称されて、大いに仏教の感化を受けたようです。このように、インド仏教とインド諸宗派は互いに影響し合っています。忽然(こつぜん)と、仏教がインドに誕生し、それが日本に伝わったとは考えにくいのです。再度、この点は頭に置いて下さい。
 次に、我々からすると変わったように見える宗派に触れておきましょう。それはニヤーヤ派です。ニヤーヤ(nyaya)とは、「論理」「論証」「理屈」を意味します。この派では、論証や論理的な考察を通じて、悟りを得ようとします。この派も現代インドに残っていて、数学者がこの派の研究を行うケースもよくあります。このニヤーヤ派に対抗したのが、実は、仏教です。インド仏教では、因(いん)明(みょう)と言う分野が極めて盛んでした。因明とは論証学とでも呼べるものです。これが隆盛を極め、ニヤーヤ派と長きに渡って、論争を繰り広げます。その様子を綴った面白いブログがあるので、次に引用してみましょう。
インド論理学は、結局のところ、西の横綱、仏教と、東の横綱、二ヤーヤ学派とのそれはそれは激しい論争史としてまとめられるのです。知力を尽した戦の後、生き残ったのは二ヤーヤ学派でした。しかし、それは仏教に論争で勝ったためではなく、イスラム教徒の侵攻(しんこう)により仏教の寺院が破壊されて、インドで仏教が滅んでしまったことによるのです。
まったく惜しいことです。好敵手を亡くしたニヤーヤ学派は、後に、先ほど書きましたナヴィヤ・ニヤーヤ〔新ニヤーヤ〕学派へと変身していくのですが、その論理学的価値は、以前ほどの輝きがあるようには見えません。一人横綱は、あまり強くなれないのです。ま、とにかく、13世紀以前のインド論理学をまとめて「論争の論理学」と名づけておきましょう。ここには、本当に輝かしい人々が、インドの哲人たちが名を連ねています。管理人
など、あまりの輝きに目が見えなくなりそうです。サインをもらうために色紙が束で必要です。名をあげますと、正横綱、龍樹(りゅうじゅ)(大乗中観派開祖)、東の横綱はガウタマ(ニヤーヤ学派の開祖)、あと大関が、ディグナーガ(仏教)とヴァーツヤーヤナ(ニヤーヤ)関脇がウッディヨータカラ(ニヤーヤ)とダルマキールティ(仏教)以下たくさん、と続きます。正直いって、論理学が真の意味で生きていたのはこの時代だと思います。西洋の論理学を圧倒的に超える優れた考えがバンバン出てきた時代です。それなのに、この時代の研究は、それぞれ部分的に専門の学者が研究しているだけで、論理学の一大スペクタクルとして見るような人はまだいません。そこまで、まだ研究が進んでいない状況なのでしょうか。ああ、グチは言うまい、こぼすまい。(石飛道子氏のブログ「インド論理学の文献あれこれ、それにインド論理学研究史も」から抜粋、ルビ・〔 〕私、最終閲覧日
2022/12/28,14:26)
これを書いている石飛道子氏は、インド論理学の専門家です。特に関心のある人以外、内容を理解するのも大変だと思います。そこで、私のわかる範囲で説明を加えてみましょう。
まず、「ナヴィヤ・ニヤーヤ〔新ニヤーヤ〕学派」と言っているのが、現代インドにも生きているものです。あまり聞いたことのない名前も沢山出てきました。仏教側の人物だけでも、紹介しておきましょう。ディグナーガ(Dignaga)という人が、最初にインド中から注目を浴びました。彼は漢訳名陳那(じんな)と言って、5世紀頃の人です。『集量論(じゅりょうろん)』Pramanasauccaya(プラマーナ・サムッチャヤ)と言う書物で、当時のインド思想界を批判しました。現代風に書名を訳すと『認識論集成』でしょうか。読み癖で『じゅりょうろん』と読みます。当時のインド諸派の認識論をまとめて批判した書です。これに驚いた他宗派のバラモン達は、陳那攻撃に走ります。ヴァーツヤーヤナやウッディヨータカラという人がニヤーヤ派の代表です。その人々を再度批判したのが、ダルマキールティと言う仏教徒です。漢訳名法称(ほっしょう)で、6世紀頃の人です。法称の批判は陳那以上に鋭く、他宗派はこぞって反論しました。こうした因明の伝統は、インド仏教が滅亡するまで続きます。因明なくして、5世以後のインド仏教は成立しません。インド僧達は、一方で密教という不可思議な分野の研鑽に励み、もう一方で理屈っぽい因明の研究を同時進行で行っていました。両方に秀でた学僧も多数いました。

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