仏教余話
その29
仏教、特に、インド仏教の理解には、他学派研究は、必要十分条件なのである。1例のみ挙げておこう。仏教と取分け関係が深いのは、ジャイナ教である。この2つの宗派について、榎本文雄氏は、こう語る。
ジャイナ教と仏教は、ともにヴェーダ祭式宗教に対する批判的革新勢力として、既に成立していた業と輪廻の思想に基づきながら、最終的にはこの業と輪廻を超克することを目指した。このため両教には共通点が多い。まず、聖典をはじめとする文献において、両教は、その思想や実践の根幹に位置する術後を多く共有する。漢訳の仏教術後で挙げると、無常、愛、貪・瞋・癡、業、漏、律儀、禅定、解脱、涅槃、比丘、阿羅漢、如来、仏陀などである。また、文章単位での共通要素も、特に韻文に多く存在する。さらに、両教とも、元来、口伝されていた聖典が後に書写されるようになるが、その契機になったと伝えられているものが共に飢饉であり、書写の開始と伝承される時代も共に紀元前後頃であった。…他方、相違点もある。まず、ジャイナ教は「ジーヴァ」という語を用いてインド正統派のアートマン(恒常な絶対的主体としての固体の本質)の存在を認めるが、仏教は初期において「~はアートマンではない」(非我)と説いてアートマンの存在・非存在のいずれも認めず、後のアビダルマ以後はアートマンの非存在(無我)を主張してインドでは異端と看做された。実践面では、ジャイナ教は身体的苦行・不殺生・無所有などの、目に見える身体的修行を徹底するのに対し、仏教は意図や動機といった内面的な心の浄化を重視する。哲学的側面では、ジャイナ教は多面的観点から物事を捉えることで結果的に中立的立場をとろうとするのに対し…仏教は両端に与しない態度(中道)を基本姿勢として、この中道の絶妙のバランスを保つため、言語による説明を拒否(無記)したり、言葉を超越した在り方としての沈黙を賞賛したりする。また、共通点として前に挙げた両教の文献の共通箇所にも多少の異同は認められ、それらを仔細に検討すると、前に記したジャイナ教と仏教の違いが鮮明に浮かび上がることがある。欲望に限度がないことを達観する共通詩において、ジャイナ教は「苦行tava(tapas)」の、仏教は「正しくバランスを保つことsama」の実践を強調する。…歴史的には、仏教は、東南アジア・チベット・中央アジア・中国・朝鮮・日本にまで伝播して、世界の三大宗教の一つに数え挙げられるが、ネパール・スリランカ等の周辺部を除いてインド本国では十三世紀頃に滅びた。他方、ジャイナ教は、インド外にまで伝播することはなかったが、少数派ながら現代までインドで生き残ってきた。この相違には、外部的な条件の影響もあろうが、前に記したような両教の思想・実践の相違という内在的な原因も作用したと推定される。その一つとして、ジャイナ教は不殺生の戒律を仏教と比べて一層厳格に遵守するため、ジャイナ教出家修行者は殺生を恐れ、インド外まで布教の旅行ができなかったと考えられる。…また、仏教は縁起をはじめ教義に基づく普遍的宗教としての純粋度が高かったため、ジャイナ教やヒンドゥー教のようにインドの土着的環境に適合した儀礼などの特有な生活様式によって現代に至るまで在家信者を長く掌握することができなかったと推測される。…仏教は、世界宗教の一つに成り得る普遍的性格を持っていたからこそ、インドでは滅びてしまったと言えるかもしれない。(榎本文雄「コラム②ジャイナ教と仏教」『新アジア仏教史02 インドII 仏教の形成と展開』平成22年所収、pp.116-118)
極めて、示唆的な論考だと思う。以って、仏教の研究には、他学派研究が不可欠であることの好例としたい。