村上春樹『1973年のピンボール』考察と新説解説
※本記事は2020年11月1日日曜日に行われたキャスのまとめ版です。動画はこちら👇
https://twitcasting.tv/abeumekichi/movie/649003649
以下おおいにネタバレを含みますのでご注意ください。
この記事は1万4千文字以上あります。
今回は過去の研究者の意見を踏まえ、自分なりに新しい説を考案しました。
その説としましては
「鼠は海に入水自殺した可能性がある」ことと、「鼠のテーマカラーはオレンジだがカラフルなことに意味がある」、「アップダイクの影響がみられる」ということです。
はじめに本書について、Wikipediaの訂正からお伝えいたします。以下引用です。
■概要
• 文芸誌『群像』1980年3月号に掲載され、同年6月17日、講談社より単行本化された[1]。表紙の絵は佐々木マキ。1983年9月8日、講談社文庫として文庫化された[2]。2004年11月16日、文庫の新装版が出版された[3]。
• 第83回芥川賞(1980年上半期)の候補作となった。
• 「鼠三部作」の2作目。1973年9月に始まり、11月に終わる。第1章から第25章まで、「僕」の物語の章と鼠の物語の章に分かれ、二つの物語系列がパラレル(平行)に進行していく。
• 村上は当初、小説をリアリズムで書こうとしたが挫折し、「鼠」の章のみリアリズムで書いたと述べている[6]。推敲を何度も重ねることで知られる村上だが、終盤の倉庫の箇所は一切書き直しなしで書いたという[7]。
• 初期の長編2作は講談社英語文庫の英訳版(『Hear the Wind Sing』と『Pinball, 1973』)が存在していたが、村上自身が初期の長編2作を「自身が未熟な時代の作品」と評価していたため、長い間日本国外での英訳版の刊行は一切行われていなかった[8]。2015年8月4日にテッド・グーセンの新訳により、『風の歌を聴け』との合本でHarvill Seckerから出版された。また同日、オーディオブック版もRandom House Audioから発売された[9][10]。
• 2016年7月1日、電子書籍版が配信開始
■タイトル
Wikipediaにはタイトルは大江健三郎の『万延元年のフットボール』のパロディという説[4]があるが、本人は異なる証言をしている[注 1]
『ウォーク・ドント・ラン』講談社、1981年7月、21-22頁
「ぼくは、一つの言葉から、なんかつくるっていうの好きなんですよね。『1973年のピンボール』にしても、まず、ピンボールについての小説を書きたい。ピンボールっていう題があるから、じゃ、年号をつけようか。〝1973年のピンボール〟でいこう、と」
実際は文學界のインタビューで大江のフットボールが頭にあったことも言っています。
また、自分には書きたいことが無かったとも答えており、1973年で何が書けるかが発端だったと仰っています。ということで、パロディではないにせよ、『万延元年のフットボール』が何かしら引っ掛かっていたのは事実でしょう。
■登場人物
僕、双子(208、209)、共同経営者、事務員、鼠、ジェイ、スペイン語の教師。
『風の歌を聴け』でもおなじみの登場人物もいます。
ただ、はっきりと名前を与えられているのはすでに本書では死んでいる直子だけです。
直子はご存じ『ノルウェイの森』の登場人物でもあります。春樹作品ではたびたび「名前」が重要な意味を持ちます。最新刊『一人称単数』でさらにその意義が強まったように感じていますが、今回は話すと長くなるので割愛します。
■全体構造
村上春樹イエローページ』加藤典洋 幻冬舎文庫 平成18年 84ページの画像を引用します。
「僕」と「鼠」の二つの軸がある構造です。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や『1Q84』などにもみられ、春樹が好んで使う手法です。第一章から二十五章まであります。短い章ごとに成り立つ構成は、自身が初期に作は特に影響を受けていると語っているブローティガンの影響が強いと感じます。
鼠パートは「リアリズム(春樹談)」文体をめざしていたと本人は語っています。(文學界1991年4月臨時創刊号)リアリズムと春樹が語るときに何を意味するのかは私自身もっと読み込んでいかなければならないと考えていますが、過去のインタビューを見る限り「三人称」のことを言っているのか、と思わなくもないです(しかしわかりません・・・)。これについて加藤先生は本書について、「神」視点ではなく「僕」視点から鼠を書いているのか、と疑問を呈しています。その可能性はおおいにあると私自身考えています。しかしそれは単に本書を読んだだけではわからず、他の作品にもヒントがあると考えています。
また本書には主人公が卒論の指導教授に「文章はいい、論旨も明確だ、だがテーマがない」と言われたエピソードが挿入されています。これは的確に本書を春樹自身が言い表した言葉でしょう。本書で描かれる問に答えはなく、その答えはのちに発表される別の作品に受け継がれることとなります。それゆえ、その未熟さから春樹自身はこの作品をあまり評価していません。芥川賞候補になりながら落ちたからそう思っているのでは、と考える人もいるかもしれませんが、たびたびインタビューで評価自体は全く気にしていないことを言っているので、おそらく違うと思います。純粋にこの作品のクオリティに満足がいかないのでしょう。それゆえに翻訳を断っていた経緯もあるのかもしれません。
■ピンボールの構造
そもそもピンボールを見たことが無い人も多いのではないでしょうか。
小島 基洋先生の2009年の論文、『村上春樹『1973年のピンボール』論 : フリッパー,配電盤,ゲーム・ティルト,リプレイ あるいは,双子の女の子,直子,くしゃみ,『純粋理性批判』の無効性』から、その構造を見ていきましょう。
斎藤美奈子は双子をフリッパー、僕をボールとする説を唱えています。
また、本書最後に出てくる『スペースシップ』を「直子」とする説を唱えているのは加藤典洋、山根由美恵、石原千秋と数多くいるそうです。私自身もこの説に賛同しています。
この『スペースシップ』は春樹の創作の台。(会社名も創作)であり実在のスペースシップ台とは無関係らしいです。これは『海』1980年9月号に掲載された『ピンボール後日譚』に書かれています。が、これも本当かどうかわかりません。私はここに書いてあることを信じますが、何より嘘は一度ついたら貫き通さなくてはならないのですから。『風の歌を聴け』受賞時、彼自身が創作した作家「デレク・ハートフィールド」についてさらに嘘をついた春樹のことなので。
先の小島先生の論文にはさらに登場人物がピンボールの部品である説を展開しています。双子をフリッパーとし、その根拠として二人の名前を決めるときに「入り口と出口」と主人公が言ったこと(プランジャーレーンとアウトホール)、208と209の名について双子は「製造番号みたい」と語っていること、ゴルフ場でロストボール探しをしていること、トレーナーシャツがはためいていること(パタパタと動くフリッパーを表現)をあげています。
また冒頭で1973年5月に主人公が犬に会いに行くシーンがあります。ただ犬だけを見に駅に行くこの行動は一見読者には何をしたいのかわからないかもしれませんが、主人公が犬をボールに、プラットフォームをレーンとし、仮想ピンボールゲームをしていると考えることもできます。しかしピンボール遊びには意味がなく(本書ではここが強調されています)、また永遠にリプレイを要求することから、いくら仮想遊びをしても、一時的な満足しか得られません。そこで主人公は帰りの電車の中で自分に何度も「全ては終わっちまったんだ」と言い聞かせるのです。
■本文読解
冒頭
小説において何よりも大事なインパクトを飾る冒頭は重要です。本書は「見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった」から始まりますが、この一文から始まる意味を、読者はこの段階ではわかりません。本書ではたびたび主人公が誰ともかかわりあえないこと、誰も語ってくれないこと(電話がこないなど)を強調しています「主人公が語って欲しいことが語られないこと」がなぜくりかえし描写されているのか、それは最後に読み通してはじめてわかるようになっています(後述)。
1973年以前
冒頭は1969年、主人公は20歳です。これは作者春樹自身とまったく一致しています。この時点では直子の描写があり、生きていることがわかります。
土星に住む人間が出てきますが、『風の歌を聴け』のハートフィールドの著書を思い起こさせます。のちにスペースシップの台にも金星を含む星の描写が出てくるので、そのメタファーとも考えられます。「引力が強い、チューインガムで足をくじく」というのは、のちの鼠の地獄を示唆しているかもしれません。出口のない鼠取りで以前主人公が鼠をとっていたことを覚えている人も多いでしょう。また、土星に住む彼らが「住みづらい故郷だけど出て行かない」思想は、故郷を出て大学に行った主人公と相対する思想です。「土星で革命をして立派な国を作る」と彼は言いますが、この「革命」という言葉もたびたび出てきます。春樹自身、大学紛争を間接的に時代的に経験している世代であり、『ノルウェイの森』などにもその様子が書かれています。夢が崩れ去った、果たされなかった思いの象徴を『羊をめぐる冒険』の「羊」ととらえる説もあり(後述)、隠れて重要なポイントとなります。
その後、直子は退屈な街の「プラットフォームを縦断する犬」の話をします。4年後の1973年5月、主人公はネクタイと新しい靴で犬を見に行くのですが、これは先述した仮想ピンボール遊びです。プラットフォームをプラジャーレーン、犬をボールに見立てて遊んでいるのでしょう。(しかし一見してネクタイと新しい靴で犬を見に行くなんて、不思議な話ですね。)
ピンボール遊びとは、「死んだ直子のことを繰り返し考える無駄な行為」のメタファーと言えます。犬が見えず「違和感」を感じますが、これは『風の歌を聴け』でのトレーシングペーパーがずれた表現など、たびたび出てくる情景です。同書には街が退屈であるような表現もあります。
■井戸について
冒頭から井戸が出てきます。春樹作品において「こちらの世界」と「あちらの世界」をつなぐ何かしら重要なキーになる井戸ですが、加藤先生のご著書で詳しくまとまっているので是非参考にしてください。
井戸を掘る職人がいたが「電車にひかれて死ぬ」、つまり跡継ぎなしだということがわかります。このとき直子が17歳、1966年です。ちなみにノルウェイの森でキズキが死んだ年も17歳です。ここで井戸(なんらかのメタファー、入り口と出口を繋ぐもの)が消失したと考えられます。主人公は「井戸が好き」なので、直子の精神的依存先、何か大事なものが主人公に継承された可能性も考えられます。この「役割の継承」は『海辺のカフカ』や『ねじまき鳥クロニクル』などでも顕著です。
次に直子の父とコロニーからトナカイの話になります。「トナカイの話」は「革命のために死んだ者への敬意の話」とも考えられます。先述したように「羊」とは「革命思想」「自己否定」の観念(『村上春樹論集成』 川本三郎 2006若草書房 90ページ)と考える説もあります。
冒頭はまだ続きます。『ピンボールから得るものは殆ど何もない。数値に置き換えられたプライドだけだ』、『永劫性について我々は多くを知らぬ。しかしその影を推し量ることはできる』とあります。ここからもピンボールの繰り返しとは直子及び鼠(=キズキの死)を考察するも、得るものはなく、影を推し量ることしかできないと読み取ることが出来ます。またこの箇所から、鼠パートは「神」の視点からではなく「主人公視点から想像して書かれた三人称」とも考えることが出来ます。
本書では直子及び鼠の死に関する答えが出ず、それぞれ「ノルウェイの森」と「羊をめぐる冒険」に続くこととなります。本書自体が長い長い物語の序章でもあるのです。
■双子の数字の意味
208と209とはなんなのか。ここでは2つの説を提示します。
①昭和20年8月と9月説(終戦前と終戦後)
②ブローティガン『アメリカの鱒釣り』説
ネットでは①の意見が度々散見されます。双子について「似ているけれど明確に変わってしまった歴史の象徴」ととらえるのも頷けますが、話が飛躍しすぎている気もします。確かにたびたび春樹は歴史を作品構造の中に入れ込んできますが、第二次世界大戦が本書とか関りがあるのかと言われたら疑問を感じます。
春樹の初期作品がブローディガン及びヴォネガットに影響を受けていることは本人もインタビューで言っており、ブローディガンに関する文章も掲載(文學界1991年4月臨時創刊号)されています。ブローティガン『アメリカの鱒釣り』には「208」という猫が出てきます。またブローティガン作品にありがちな1、2ページで終わる短い章の文章の寄せ集め構造、固有名詞の箇条書き、数値にこだわる描写などは本書でもかなりみられ、本人が言うように影響を受けていると感じられる部分がたくさんあります。ただこの『アメリカの鱒釣り』では209が出てきません。個人的には②から無意識に影響を受け春樹自身が派生されたと考えています。ちなみに、本書では魚の描写が鼠パートには多く、その意味も後述しますが、とりわけ「鱒」という単語は三回も出てきます。これを偶然と考えるには多く、やはりブローティガンの影響が大きいと考えるのが妥当だと思われます。
■双子の役割
双子は巫女的な、主人公を導き、物語を促進させる役割を持つ登場人物です。ギリシャ悲劇のような構造で、春樹作品にはたびたびこのような登場人物が出てきます。ちなみに春樹は大学時代に演劇を勉強しており、『ノルウェイの森』の主人公がギリシャ悲劇を勉強していると言っています(『ノルウェイの森』はデウスエクスマキナが不在の悲劇と考えることもできます。いつかまとめられたらまとめます)。
双子が配電盤の位置を知っているのも、吸いこみすぎて駄目になってしまったことを主人公に諭すセリフも、配電盤の葬式をした後に役割を終え双子が去っていくのも、もともと主人公に「鼠(配電盤)との関係性が壊れていたことを示唆する役割」であったと考えると、納得がいくわけです。これは後述しますが、のちに書かれた短編『双子と沈んだ大陸』を読めば、その根拠は強まるでしょう。
■鼠、主人公、直子の三角関係
主人公は「ほとんど誰とも友だちになんかなれない」「誰にも何も与えることが出来ないのかもしれない」と語り、たびたび誰ともコミュニケーションをとれないような表現が出てきます。ここから過去に誰かを傷つけてしまったことにより主人公が他者と関われないことが推測できます。
主人公は直子の死のことを引きずっています。全て終わってしまったのだから考えるのをやめたいと自分に言い聞かせています。また双子が買ったビートルズのアルバム「ラバーソウル」に驚いて叫ぶシーンがありますが、このあアルバムには「ノルウェイの森」が収録されています。小説『ノルウェイの森』では直子がこの曲を好きだったことが書かれており、それゆえに驚いたと考えるのが妥当でしょう。事務所の女の子との食事シーンでは、主人公が「欲しいと思ったものは何でも必ず手に入れてきた。でも、何かを手に入れるたびに別の何かを踏みつけてきた。」「三年ばかり前にそれに気づいた」(繰り返し書かれる三年前です)「もう何も欲しがるまい」と語ります。ここから直子を鼠から奪ってしまった、そのことがあり、もう何も欲しがらないように決めた、誰かと分かり合うことは不可能という思想を自分で固めた、と推測することもできます。そこから主人公は三年前、直子の死をきっかけに大学にもいかずにピンボールにのめりこむようになります。
■配電盤=鼠説
春樹作品には電話が度々出てきます。すぐに思い浮かぶのは『ねじまき鳥クロニクル』や『TVピープル』でしょう。『ノルウェイの森』の最後のシーンも電話で終わります。電話は登場人物どうしのコミュニケーションのメタファーとして機能しています。春樹作品では「シークアンドファインド(回復喪失性)」物語構造を取ることが多く、これはインタビューで本人がフイリップマーロウシリーズに影響を受け、それを純文学の形で取り入れられないかと考えていたと仰っています(マーロウ自体も春樹作品に引用されています)。また個人的には大事な者、とりわけ配偶者の喪失をテーマに数多く作品を発表しているレイモンドカーヴァーの影響も計り知れないと考えています(春樹は生前のカーヴァーに会っており、たびたび彼の著作を翻訳しています)。
電話はコミュニケーションのメタファーですが、その親、ボスである配電盤こそが鼠と主人公の絆を示すツールだと考えることもできます。『ノルウェイの森』では主人公の友人であり自殺したキズキについて、才能があるのにその才能を自分と直子のために使ってくれた、とあります。キズキはその人を幸せにする才能を、たった二人のために使ってくれたのです。ここから主人公たちは、ある種閉塞的で密接なコミュニティ(この関係性はちなみに『多崎つくる』等でも出てきますね)を築いていたと考えられ、主人公と他者とのつながりはキズキ、つまり鼠と強く繋がっていたと考えられます。
配電盤が鼠である根拠は他にもあります。それはのちに書かれた後日譚短編『双子と沈んだ大陸』にあります。そこには「ずっと以前にすでに失われていて双子は僕にそれを知らせてくれただけ」とあります。これは鼠との関係性を現した文です。
■『双子と沈んだ大陸』との連関
本書は1985年に発表された短編です。『1973年~』から48作品発表したのちに出されています。そののちに『ノルウェイの森』と『ねじまき鳥クロニクル』が発表されますが、既に本書からその助走部分が垣間見えます。共同経営者の名前、隣の歯科医院に勤める受付の女の子の名前が『ねじまき鳥クロニクル』の登場人物名と重なっていることからも明らかです。
本書は「1974年4月」つまり『1973年のピンボール』の終わり(11月)から5か月後の話です。
冒頭では服に興味のなかった双子がファッション雑誌に載っているところから始まります。ここから決定的に過去が変化してしまったこと、双子が主人公を通過してしまったことが読み取れます。留守番電話が嫌い(暖かみが無いとのこと)主人公、ブルーの服が多く出てくる描写と、『1973年~』に通じる描写があります。「すべては失われたものだし(双子含)、失われるづけるべき筋あい」、「彼女は既に僕を通過してしまったのだ」と言っているように、主人公は鼠、直子、それに双子まで失ってしまします。
本短編では明け方に見る不思議な夢が出てきます。ここに出てくる二重の壁は主人公の心の壁を表しているのかもしれません。無意識にも意識的にも人と関わることを遠ざけ、心に壁を作り、「入口」のない建物が完成します。
また「海に沈んだ古代の伝説の大陸」とは鼠のことを表していると考えられます。「海に沈んだ」は鼠のことだと思われます。その根拠として『1973年~』では鼠パートに川や波、海、魚に関する描写が多く出てくることです。「古代の」はすでに失われてしまったことを表し、「伝説の大陸」とは、これはおそらくですが、鼠=キズキの役割と考えたとき、『ノルウェイの森』では主人公がキズキのことをすごく重要視し、またキズキの才能は主人公と直子という閉鎖的空間に使われたとする描写あるからです。
極めつけは本短編次の文章、「十一月の冷たい雨の降る夜に傘を持っていなかったから」ですが、これは明らかに『1973年~』での配電盤の葬式のシーンを言っています。十一月、冷たい雨、傘を持っていない、と三つがすべて一致するのはこのシーンだからです。(雨については後述)「鼠=配電盤」の葬式をした日に雨(悲しみ)を直接感じたから、鼠のことを思い出すのだ、と捉えることが出来ます。それに続く「ずっと以前にすでに失われていて双子は僕にそれを知らせてくれただけ」という文も一致します。「三年という歳月が僕をこの十一月の雨の夜に運び込んできたのだ」も時系列が一致しています(余談ですが、この文は「三年という歳月」を主語にし、運び込むが英語の他動詞みたいに扱われているところが好きです。春樹が翻訳小説を多く読んでいることが伺える文章だと言えます)。
また本短編の面白いところは、「どんな鮮明な夢も結局は不鮮明な現実の中に呑み込まれそんな夢(双子)が存在していたことすら、僕には思い出せなくなってしまう」と書いてあるところです。春樹作品を考察するうえで重要な「夢」ですが、彼は夢を「鮮明」、現実を「不鮮明」だと書いています。普通の人は逆に夢が不鮮明だと書くのではないのか、と思いますが、過去も未来も曖昧と『1973年~』のラストで書いた春樹は、本短編では現実さえも不鮮明だと言っているのです。失われ続け、いつか双子も心の壁に塗り込まれ、存在を忘れてしまうのでしょうか。現実の大事なこともいつか忘れてしまう、といった描写は春樹作品には度々出てきます。この残酷なほどまでにリアリスティックな作者の視線が、より作品を悲しくいとおしく儚く、それでいて乾いたものにしているとも言えます。
■雨の描写
本書には雨が5回出てくるキーです。登場人物、とりわけ主人公の心と密接にリンクしています。
①主人公大学時代、名前のない女の子の別れのシーンです。「冷たい雨」「細かい雨」「セーターを濡らした」とあり、主人公が電話番(コミュニケーションを媒介する役割)をしていた相手と別れるとき、冷たくも細かく静かに悲しんでいたことが読み取れます。彼女からもらった物に「幸せとは暖かい仲間」と書かれてあった、というのもなんとも皮肉な話です。主人公は冷たい雨の中、仲間を失っているのですから。
②主人公24歳時点での仕事終わりに「目に見えぬほどの細かな雨」が降ります。ここでは日常に潜む主人公の悲しみ、悩みが見て取れます。(ちなみにこのシーンで『鱒』の描写あります)。自分の顔が自分の顔に見えず(アイデンティティ喪失)、「誰にとっても意味のない亡骸」だと言っています。またここでも「散歩ばかり歩けばみんな忘れてしまう」というように、現実は忘れ去られてしまうこと、主人公は誰ともコミュニケーションをとれないことを語っています。直子を失い、鼠を失っ「ている」(この時点では気づいていないのでこう書きます)主人公の闇が垣間見えます。
③配電盤の葬式のシーンです。「朝から細かい雨」「何もかもを濡らす」、「地表はぐっしょり」、「世界は救いがたい冷ややかさ」とあります。鼠との別れなので、やはり雨もすごく印象的です。
④鼠がバーで吐くシーンです。「雨水が川に流れ込み、そして海を茶色とグレーのまだらに変えた」とあります。鼠パートでは川や海の描写多く、また「色」の描写が格段に多いのです。ここでは「もし本当に眠れるのなら(本当に、に傍点が降ってあります)」と鼠の願望が書かれてあります。この描写を私は「鼠が自殺したがっている様子」だと考えていますので後述します。まず先に雨の描写をみましょう。
⑤主人公パートで穏やかな雨が降ります。10月の雨は素敵だったとあり、「針のように細い」「綿のように柔らかな雨」とあることから、悲しさと穏やかさの双方が入り混じるような雨だと考えられます。
本書は主人公と双子が別れるシーンで終わります。この時の天気は・・・言わずもがな晴れています。
■鼠入水自殺説
本書では鼠が自殺している可能性あります。物語後半になればその根拠が強まります。ただそれ以前に鼠が自殺を図っているかもしれない、と思える描写が出てきます。例えば文庫版41ページ「死んだロープを手にしたまま彼は薄い秋の闇の中を彷徨った(中略)。しかし死んだロープは彼を何処にも導かなかった。」この「ロープ」は物理なのか比喩なのかわかりませんが、この分の数行前に「時の流れはプツンプツンと断ち切られてしまっ」て「切り口が見つからない」とあることから、比喩と捉えてよいでしょう。時の流れが切られてしまった鼠は言い忘れたことがあると叫びたくなっても伝えられず、一つの季節が死んでいきます。彼の孤独、自分の状況を言えない苦しみはたびたび出てきます。
鼠パートでは「波」や「流れ」といった「水」に関係する語が多く出てきます。
鼠が均質を失い始めたのは三年ばかり前=大学を辞めた都市=直子の死と時系列が一致します。この「三年前」は本書では何度も強調されています。
何かしら事件があり、「あるものは残り(=主人公)あるものははじき飛ばされ(=鼠)、あるものは死んだ(=直子)」と考えることが出来ます。
14、鼠がバーで吐くシーンを見ましょう。「雨水が川に流れ込み、そして海を茶色とグレーのまだらに変えた」とあります。鼠パートでは川や海の描写多く、また「色」の描写が格段に多いのです。ここでは「もし本当に眠れるのなら(本当に、に傍点が降ってあります)」と鼠の願望が書かれてあります。この描写を私は「鼠が自殺したがっている様子」だと考えていますので後述します。「眠る」は「死ぬ」の隠喩です。また加藤先生はこの描写から『鼠は睡眠薬で自殺したのではないか』と考えていますが、私はそうではなく、鼠は「海に入水自殺したのではないか」と考えています。この文の「眠る」は睡眠薬ではなく単に「死ぬ」の意味、さらに鼠パートにことごとく出てくる川や波や海や魚の描写、さらに『双子と沈んだ大陸』では主人公が鼠のことを「海に沈んだ古代の伝説の大陸」と表現しているからです。
また、最後に町を出るシーンではジェイに町を出ることを伝えることが出来ません。これは単に町を出るのではなく、死の世界に行くことを表しているのではないでしょうか。鼠は知らない町に行ってしまうのです。二度と主人公と会えなくなります。だからこそ、冒頭で主人公は語るのです。「見知らぬ町の話を聞くことが好きだった」と。もう鼠が知らない町に行ってしまっても、それを主人公は聞くことが出来ません。主人公が語って欲しいことを語ってくれる相手はもうこの世界にいないのです。(鼠パートは主人公あるいは春樹自身が想像して書いている根拠でもあります)
また鼠は「霊園」と霊園以外を「下界」と表現していますし、「海の底はどんな町よりも暖かく、そして安らぎと静けさに満ちているだろう」から海の底で自殺(眠る)とも捉えられます。続く「誰にも説明しなくていい」とは、大学を辞めた経緯を語りたくなかった鼠が、もう死んで誰にも説明しなくてもいいんだ、と解放感を味わっているようにも見えます。
ちなみにジェイとの別れのシーンでは、ジェイが「何かの葬式みたいだ」と語ります。ジェイは何かに気付いていたのかもしれません。ジェイは前作『風の歌を聴け』からの登場人物で、主人公と鼠とを繋ぐ役割をしています。また彼は「ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲め」と発言しており、これは『アフターダーク』でも同じセリフが受け継がれています。
■色の描写、スペースシップ
読んでみればわかりますが、鼠のパートには色が多いものの、主人公サイドの描写ではあまり色が出てきません。とりわけ鼠パートには「オレンジ」が、主人公パートでは「ブルー」が頻回します。
春樹は『青が消える』という短い、それでいて不思議な短編を書いているのですが、そこで主人公は青とオレンジと白の色の入ったシャツをアイロンしています。そこで青が消え、オレンジと白だけになってしまうのです。ここから青は何か特別な、自分自身の色、さらにオレンジは自分と対をなす色と考えることが出来ます。実際、オレンジと青は補色みたいです。
鼠パートで色の描写が多い理由として、
①主人公が想像して書いている鼠パートでは鮮明になっている
これは先ほどの「現実は不鮮明、夢が不鮮明」という文からの推測です。想像の方がより鮮やかに書けるのではと考えることもできます。
②様々な色を塗りこめた場合黒となり、鼠の闇を表現
本書には「様々な絵の具を塗りこめた暗闇」という描写あります。色を混ぜると黒くなるように、さまざまな色を使用することによって鼠の闇を表現しているのかもしれません。
主人公パートに色が頻回するのは、スペースシップに出会ってからです。ここからレモンイエロー、ブルー、白と多くなります。「彼女たちは色あせていった」とピンボール台がいつしか風化していく様子も語られますが、スペースシップに再会するシーンで再び色を取り戻すのです。
脱線しますが、本書では赤茶、オレンジ、グレー、緑、白などが出てきます。これはよくよく見ると佐々木マキさんの表紙にぴったりですよね。マキさんが適当ではなく、ちゃんと本書を読んでイラストを描いていたのではないか、と勝手ながら推測しています。
また最後、双子は配電盤の葬式を終えた後、番号ではなくグリーンとベージュの服を着ます。これは双子自身が役割を終え、ピンボールの部品、入口と出口の存在を終えたと考えることもできるでしょう。
鼠パートでジェイと最後に別れを切り出すとき、黒白グレーと「グレースケール」のみが登場することも興味深いです。「まるで葬式みたい」ですね。
■スペースシップ、直子との再会
本書のサビです。主人公はスペースシップに会う前から「彼女」と呼んでいます。これは海外の文学に見られる「静物を女性化する表現」の影響もあると考えられますが、主人公は初めからスペースシップ=直子とわかっていた、と考えるのが妥当でしょう。直子が死んでからピンボールにのめりこみ、その間ずっと直子の死について答えの出ない問いを繰り返し自問自答していたのですから。これは会えなかった三年という期間を答えるとき、「考えるふりをして」いることからもわかります。主人公にとってピンボールに会えなかった期間、直子のことを考え続けていた三年という期間は考えなくてもすぐにわかることなのです。
■純粋理性批判が持つ意味
「シーク&ファインド(回復喪失性構造)」を取り入れたと考えられます。先述したように、フィリップマーロウのような喪失したものの回復を純文学のなかに取り込めないか、と春樹は考えていたようです。
加藤の『イエローページ』によれば本書はノスタルジアを空間から時間的観念に変えた(ジャン・スタビロンスキー)ことから、回帰はありえない、故郷に帰っても昔のままではないことを意味するそうです。
参考:
文學界1985年8月号インタビュー (文壇アイドル論)
文學界1991年4月臨時創刊号 文學界1996年8月号170ページ)
本書は回復不可能な人、死を何か(ピンボール)に代替したと考えられます。これはノルウェイの森『死は生の対極ではなくその一部』の描写ともリンクします。
また、配電盤の葬式のときに主人公はカントを引用します。
ここから主人公はなんらかの「誤解を除去したい」と考えていたのでしょう。もしかしたら直子、鼠に対して何かしら誤解を抱かれていたのかもしれません。
『多崎つくる~』では閉鎖的なコミュニティの中で誤解をされ、拒絶されてしまう主人公が出てきたので、何かしらリンクがあるのかもしれません。
■めくらやなぎと眠る女
春樹作品には耳の描写が多いです。『めくらやなぎと眠る女』でも耳の聞こえない男の子が登場します。この作品でも本書、もしくは『ノルウェイの森』で見られるような三角関係が登場します。直子、キズキ、主人公を模していると考えてもよいでしょう。本短編では「想像する痛みって、本当にその誰かが経験している痛みとは違う」、「何度も何度も色んな痛みを体験しなくちゃならない」というセリフがあります。これは『ノルウェイの森』で、どれだけ喪失を経験したとしても我々はそれに慣れることなくそのたびに傷つかなければならない、とする描写ともリンクします。
■五月の海岸線
本書鼠パートと似た情景が繰り返されます。海の匂いがするはずはない、電話をするべき相手もいない、何かしら不均一な空気、井戸、足が痛み始める、魚はほとんど住んでいない、などです。
重要なのは海に溺死者がいた描写です。わざわざこれを挿入するには意味があり、やはり主人公に何かしら思い起こさせること、つまり鼠が海で自殺した可能性がここからも強まるのです。
ノルウェイの森をはじめとする多くの作品との共通点がみられ、この短編は何かしら春樹の人生、もしくは作品を作るうえでのコアになっている、或いは自身の内的体験に基づく描写が多いのではと推測しています。
余談ですが、この短編は『阪神淡路大震災を予言していたのでは」とする説があります。根拠としては「君たちは崩れ去るだろう」という一文からですが、私はこの説を真っ向から否定します。前後の文脈と『1973年のピンボール』あるいは『ノルウェイの森』を通して、崩れ去るのは自身のアイデンティティと考えるのが妥当でしょう。物理的な意味ではありません。説明は不要だと思うので省きます。
■アップダイクの影響
本書に関して春樹自身はブローティガン、ヴォネガットの影響があるとインタビューで答えています。それは誰しもが認めるところだと思います。また大江は芥川賞候補になった本書に関する評伝で、ヴォネガットの直接的な、フィッツジェラルドの間接的な影響があると言っています。
(平野芳信 『人と文学 村上春樹』 勉誠出版 2011)
加えて私はアップダイクの影響もあると考えています。『ノルウェイの森』で主人公が『グレート・ギャツビー』に出会うまではアップダイクの『ケンタウルス』が一番好きだったと書いています。これはグレート・ギャツビーに対する評価をたびたびする春樹自身とリンクしていると考えられます。余談ですが、新刊短編『一人称単数』にもアップダイクの影響はみられると考えています。そもそもアップダイクの同名小説から本タイトルをとったと考えるのが妥当ですしね。
『風の歌を聴け』から続く「鼠」が「鼠」である所以として、一つにアップダイクの初期のウサギ三部作シリーズの影響があったと推測しています。
■最後に
本記事ではどこまで別の作品とのリンクを調べるか悩みましたが、短編とのかかわりのみを記し、長編においてはまた別の機会で考察したいと考えています。
また三回ほど登場するリチャードニクソンの意味、三回出てくる「にじます」の意味、クロスワードパズルの「にじます」と「さんぽみち」の意味など、まだ分からない点がいくつかあります。わかる人がいたら是非教えてください。
2020年11月08日 阿部拝
奇跡的に「何もかもかがすきとおってしまいそうなほどの十一月の静かな日曜日」に投稿できたのでうれしいです。
参考文献
『村上春樹イエローページ』加藤典洋 幻冬舎文庫 平成18等
『村上春樹論集成』 川本三郎 2006若草書房 90ページ
『海』 1980年 9月号
文學界1985年8月号インタビュー
文壇アイドル論
文學界1991年4月臨時創刊号
文學界1996年8月号170ページ
平野芳信 『人と文学 村上春樹』 勉誠出版 2011
小島基洋2009
ひじょうにお世話になったのは
http://www56.tok2.com/home/osakabe/Yahoo/Haruki/Source-J.html
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