バウムクーヘン•バームクーヘン
ウ
『バ ムクーヘン』
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31歳の終わり、僕の家に双子がやってきた。
「私はバウムクーヘンしか食べないからお気遣いなく」と片方が言った。
「私はバームクーヘンしか」と片方が言った。僕はその時まだ、二つの違いについてよくわかっていなかったから、
「ああ、そう」とだけ言った。
「ここにいる間の電気水道ガスは?」
「気にしないで、お金ならあげるから」と片方が言った。
「そんなに困っていないの」ともう片方が言った。
そんなの嘘だと思う。だって彼女たちの鞄の中にはいつもくたびれたアルバイト情報誌が入っていて、時折ページが折れていたから。
「で、君たちは何しているの?」
「踊っているの」と片方が言った。
「みんなの前で、スポットライトを浴びて」ともう片方が言った。
どうやらそれは本当らしかった。
一度だけ、仕事の休みの日の夕方に彼女らを尾けたことがある。彼女たちは小さな地下のパブみたいなところで、面積の少ない衣装を着て、テーブルに上って踊っていた。勿論、そのことは二人には言っていない。
彼女たちとの生活を始めたころ、お互いにルールを決めたからだ。
「お互いの生活には干渉しない」と僕は宣言した。
「お互いの寝室には入らないこと」寝室、と言っても単にベッドがあってカーテンで仕切られているだけの代物だった。なにせ僕は一人区暮らしだったのだから。
「掃除洗濯は各自。食べ物は気が向いたら一緒に食べる。光熱費は払うこと。いいね」
「構わない」と片方が言った。
「それでいい」と片方が言った。
床に積まれた大量の洗濯物を見て僕が怒ったのは、それから1週間後のことだった。
双子と暮らすようになってから一週間後、僕は布団の中で彼女たちに聞いた
「お前たちってさあ、普段どう呼び合っているの?」。彼女たちはその時、床の上でシーツにくるまって遊んでいた。どうやら二人は僕を誘って、僕がいつ彼女たちに「落ちる」か、賭けをして遊んでいたらしい。
「431」と片方が言った。
「501」ともう片方が言った。
不思議な呼び方だった。
「ふうん、結構数字としては離れているんだね」と僕が言うと、
「そうでもない」と片方が言った。
「あんまり変わらない」ともう片方が言った。
「私たちは踊るだけ」
「二人で」
「そうか」と僕はゆっくり息を吐いた。
「ところで、僕を落としたいならやめておきなよ」
「女性を愛せないの?」と一方が言った。
「男性が好きなの?」ともう一方が言った。
「ううん、僕には6歳から好きな人がいるんだ。正直、生まれてからずっとその人のことしか考えられないし、こういう夜は大抵彼女のことを考えて抜いて寝る。申し訳ないけれど君たちでは無理なんだ。君たちが魅力的じゃないってわけじゃないんだけど」君たちはなんていうか妹というか、ペットみたいに思えるんだ、と言いかけてさすがに口をつぐんだ。
「その人はどこにいるの?」
「その人とは会えないの?」
「会えるよ。ただ、ひどく混乱しているんだ。今はまだ……」
「バームクーヘンの穴はバームクーヘンかしら」と唐突に片方が言った。一切合切を無視して突き付けられたその言葉は、暗闇の中ではっとした色があった。
「バウムクーヘンの穴もそうね」
「穴自体は穴なのかしら」
「穴はバームクーヘンじゃないわ」
「じゃあバウムクーヘンでは?」
「穴はバウムクーヘンでもないと思う」
「でも穴のないバームクーヘンもない」
「穴のないバウムクーヘンも」
「体積は求められる」
「どちらにせよ」
「穴はただの穴なのか?」と僕が突っ込む。
「そうだと思う」と片方が言った。
「でも体積は求められる」ともう片方が言った。
「穴が無いバウムクーヘンはないから」とさらに一方が言った。
「穴のないバームクーヘンも」ともう片方が言った。
「うん」とだけ、答えた。それを考えるのには、少し疲れすぎていた。
「誰かを」暗闇の中で、誰かの声が聞こえた。もうどちらがどちらか、僕にはわからない。
「誰かを好きになっても、誰かを恨んでも、その気持ちが通り過ぎても、」と誰かは言った。
「何もそれに罪はないから」とまた誰かが言う。
「全ての感情に罪はないから」
「自分を縛らないで」
「通り過ぎても何かが変わる」
「たとえどんなに変わって、もう忘れ去られようとしても」
僕はまた夢を見た。6歳の頃、大好きなあの人に無理を言って抱っこしてもらった。あの頃から好きだった。ガキの戯言とか母性愛とか守られたい気持ちとか、全部全部ひっくるめて、それらをとっぱらったとしても好きだった。彼女の胸に触れていたかった。いくらガキでも、何もできなくても、彼女だけは守りたかった、
好きで好きで、独り占めしたかった。僕はあの頃から、彼女の幸せを永遠に守ると決めている。たとえあの頃、彼女のお腹の中には既に二つの命が宿っていたとしても。
イラスト:冬野 快
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