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#2 「世界が違った」 【あべしょーのKick Story】

阿部翔平選手のこれまでの人生やキャリアを振り返りながら、「阿部翔平のキック理論」が確立されてきた背景を探るシリーズ、「あべしょーのKick Story」。2回目の今回は前回の小学生編につづく中学生時代にフォーカスします。横浜フリューゲルスジュニアユースに入団したきっかけ、当時の印象に残っている光景、そして阿部選手が打ち込んでいた練習についても伺いました。中学生時代の阿部翔平選手が学び、得たものは何なのか。どうぞ、以下のインタビューで確かめてください!

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1. 再び後ろのポジションへ

――阿部選手は中学校から横浜フリューゲルスのジュニアユースでプレーをしていますが、入団したきっかけは何ですか?

横浜市選抜に選ばれていたことがきっかけです。特に大きかったのは神奈川県大会の決勝に出場して、そこでの活躍をフリューゲルスの人が見ていてくれていたことですね。ただ、その大会の決勝戦は0-4でボロ負けして優勝できませんでした。対戦相手のプレーが良かったのもありますが、相手の応援団に気圧されてしまったことも負けてしまった原因だったとは思います。

――フリューゲルスジュニアユースでも小学生の頃と同じポジションでしたか?

オフェンシブミッドフィルダーからウィングバックに変わりました。上手い選手に追い出される形でポジションが変わりました。左利きで蹴れるし、その当時は3バックを採用していたので、「左利きだからウィングバックだろう」というのがポジション変更の理由だと思います。僕自身、オフェンシブでやっていくのは難しかったです。当時、他の中学生には170センチとかの選手もいたので、小学校を卒業したときの身長が147センチぐらいしかなかった僕にとっては体格的に無理でした。ある意味、世界が違いました。

――当時のプレースタイルはどのようなものでしたか?

常にクロスを供給するような役目でした。この頃から運動量を意識するようになった気がします。ウィングバックはディフェンス時には引かなくてはいけないし、攻撃にも参加しないといけないポジションなので、本当に運動量を求められました。それに応えるために、自分も運動量を高めていかないと通用しないと感じていました。また、選抜された選手には180センチ近い選手とかもいて、身体が小さかった自分はパワー勝負では勝てないと思っていました。小学生の頃までの感覚でドリブルをしても、体格の大きい選手に足を入れられたり、身体を入れられたりしてしまう。そうなったときに、アピールできるのは運動量の部分しかないと感じました。選手として生き残るためにそういったことを考えていました。

2. 憧れのプレーと夢見た舞台

――当時のいちばん思い出に残っていることは何ですか?

ユースの全国大会に出場したことは良い思い出です。でも、落とすフリーキックの蹴り方をずっと練習してた方が印象的かもしれません。チームの全体練習後、僕と同じように落とすフリーキックを蹴りたいチームメイトがたくさんいたので、一緒にフリーキックの練習をしていました。「こうやって蹴ってみたんだけどどう?」「ちょっと違くない?」「もうちょい下から入れて、上げる感じじゃないの?」みたいな話をして、「じゃあやってみるわ」って蹴ってみると、ボールが上の方にパーン!って飛んでいくこともよくありました。こういう感じで、友達と「ここはこうだよね」みたいに意見を言い合いながら練習をしていました。当時、三浦アツさん(三浦淳寛、現ヴィッセル神戸監督)が落ちるフリーキックを蹴っていたのを見て、チームメイトと「すごいね!」「真似したいな!」って話をしていたのを覚えています。

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――Jリーグクラブのジュニアユースに所属していましたが、この頃にはすでにプロサッカー選手を目指していましたか?

スタジアムで何度も観戦させてもらったときに、この舞台でやってみたいと思いました。試合を観たのはニッパツ(当時の三ツ沢公園球技場)のバックスタンドが多かったです。土や人工芝のピッチだと地面がキラキラしないですが、三ツ沢公園球技場は天然芝なので雨で濡れたときにピッチが光っていたんです。夢の中にいると錯覚するような、あのキラキラ光るピッチでサッカーをしたいという気持ちがありました。その景色は今でも覚えています。

3. 試行錯誤と「心の鍛錬」

――レベルの高いプレーヤーが集まっていたと思うのですが、挫折であったり、悔しい思いをした思い出はありますか?

体が小さかったので大きい選手に当たり負けしてしまうときに悔しかった記憶があります。でも、それをなんとかしようと考えて、対策するのは楽しかったです。その当時は相手とできるだけコンタクトしないように意識していました。自分はドリブルで持っていけるようなプレーヤーではないですし、相手の足の届く範囲も長いので、小学生のときのドリブルの感覚をリセットしました。試行錯誤を重ねて、「相手が来たときはこのぐらいまで避けなきゃいけない」みたいな感覚を見つけることができました。

それでもやはり上には上がたくさんいました。「お前本当に中学生か?!」みたいな選手もいました。そういう選手は陸上や駅伝もやりつつサッカーもやっている、まさにスポーツ万能中学生でしたね(笑) さすがにこういう選手には勝てないなと思いました。

あと、中学のときはサッカーがつまらないと思う時期もありました。サッカーが上手くなっていないというのをすごく感じていました。実際は上手くなっていたのかもしれませんが、上達している実感がないのでプレーすることにやりがいや刺激を感じられませんでした。でも、性格は真面目なのでサボらずにやることはやっていました。サッカーが始まったらきちんと取り組んで、まわりのモチベーションを下げてはいけないというのは思っていました。

――フリューゲルスのジュニアユースでプレーした経験で今に活きているものはありますか?

世の中には上手い人がたくさんいるということがわかったこと。そのうえで、その中で生きていくにはどうしたらいいかを考えて、実践できる習慣がついたこと。そして、サッカーがつまらなくても続けること。この3つです。

今でも「この練習ちょっとつまらないな」みたいに思うことはあります。もしかしたら自分にとっては本当に意味がないのかもしれない。それでも、僕がやることでまわりの人に意味があるんだったら、それは意味があることだと思います。本当に価値がゼロで、誰の役にも立たない、そういう練習なら回避したほうがいいのかもしれませんが、実際はそうではありません。ただ、多分これは30歳を越えてから考えられるようになったことですが、それぞれの立場から練習をみたときにどうなのかなというのは感じられるようになりました。当時だったら、そういうつまらない練習にも心の鍛錬としての意味はあったと思います。

サッカーにかぎらず、何においてもつまらないことや興味のないこと、でもやらなきゃいけないことっていうのはあります。それに対する耐性のようなものは中学生のときにすごくついたと思いますね。

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今回は阿部翔平選手が横浜フリューゲルスジュニアユースに所属した中学生時代を取り上げました。次回、4月30日(金)に公開予定の「あべしょーのKick Story」では阿部翔平選手の市立船橋高校サッカー部時代をテーマにしたnoteをお届けする予定です。どうぞお楽しみに!


監修・制作:阿部翔平(SHIBUYA CITY FC)

取材・制作・編集:川上皓輝(SHIBUYA CITY FC スタッフ)


阿部翔平 公式YouTubeチャンネル「阿部翔平/Abe Shohei」

阿部翔平 公式Twitter(@abeshohei21)

SHIBUYA CITY FC 公式サイト

阿部翔平(あべ しょうへい)
1983年12月1日生まれ。神奈川県横浜市出身。主なポジションは左サイドバック。横浜フリューゲルスジュニアユース、市立船橋高校、筑波大学を経て2006年に名古屋グランパスでJリーグデビュー。2009年には日本代表にも招集されると、2010年には左サイドバックの主力として名古屋のJ1優勝に貢献した。ヴァンフォーレ甲府やジェフユナイテッド千葉でもプレーしたのち、2019年に当時東京都2部リーグ所属のTOKYO CITY F.C.(現 SHIBUYA CITY FC)に加入。Jリーグ通算355試合出場4得点。

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