2021年の読書
誰にもいえない読書観
あけましておめでとうございます。
去年まではなにか書きたいときは、LINE BLOGにしておりましたが、本年からはこちらにしようかなと思い、さっそく書いています。
久々にnoteでのブログなので、いろいろ確認しながらですがご容赦ください。
さて、今回は読書について。
2021年の目標の一つにじつは読書がありました。
思い返してみれば、ここ10年ほどの読書数は50冊いってないのではないかと思います。
のちに書きますが、読書を読書数で語るのには違和感があります。
いや、ある一定数は読めないと話にはならないとは思いますが、それでも数だけで語ること、それは読書を楽しめていることになるのかと、個人的に(自分自身に向けて)思っています。
私自身、ここ2年転機がありました。
そこで感じたことは、人生は足早に過ぎ去っていくということです。
学生時代思っていたこと。
定年後、いや、余生。
この高齢化社会、きっと働けなくなってから長い(あの当時は自分がどのように働くかのイメージはありませんでした。。)。
そうしたら、備忘録リストにいれていた本を、映画を、ゲームをするんだ。
そう思っていました。
が。
単純に本も、映画も、ゲームも、それを楽しんでいる私を常に保っていなければ、余生、それらに戻ることはできない。
と、時間の過ぎ去る速さを感じた私は思いました。
目の前の事象。
それを処理、対処することにほぼすべてが使われる。
そして、ときは過ぎ去っていく。
今、しなければ取り返しがつかない。
もしくは、それを取り返すためにさらなる時間や労力が費やされる。
そんな葛藤のなか、自分が好きだと思うこと、したいと思っていることに、しっかり時間をとってしなければもう人生が終わるのを待つだけになってしまう。
そんな焦りにも似た感情から、去年、読書を再開しました。
久々の読書だったので、まるで本を読めませんでした。
読めない。
それは、活字を目で追うスピードであったり、本の構成を頭で理解し、次を読むイメージ力だったり。
とにかく読むことが楽しいと思えないというものでした。
そのあたりは、想定していたので、この電子書籍全盛の自体、あえて紙の本で読むことにしていました。
紙の本だと残りのページ数や、指の感覚、そういった目以外の部分に訴える力が強いと思ってのことでした。
去年の1月はそんなこんなで本を読み始めることに時間を費やしてしまいました。
自分の読書記録をみると2月くらいから冊数がカウントされています。
それぐらい久々の読書再開は困難さを抱えていたと思います。
さて、本題の2021年の読書。
これも隠し気味でいってましたが、私の今の仕事は第一次産業に属し、農業に分類されます。
それもゆえあってのことですが、それはおって話したいと思います。
ということで、読書もその手の専門書、関連書籍も読んでいます。
小説、物語だけではない読書になっている。
学生時代も新書や、評論とか読んでいたがまた違った感じでの読書になってます。
農業技術的なものや、農政、農業史、地理的な物、生産者紹介本など。
そちらに関しても、またおいおいに。。
さて、そんなことで2021年の読書は60冊。
リハビリを兼ねての、上橋菜穂子さんの作品や指輪物語を読み始め、最終的にカズオイシグロ作品で去年は締めくくりました。
冊数的な感覚では、年間50冊を越えるようなペースではおそらく読めない。
月4冊、つまり週1冊の計算になる。
1冊読むのに何時間かかるのか。
そこに思いいたると、どんな本を読むと週末に読みきれるかということにも行きつく。
そこで、さきほどの読書観の話になるのです。
とりあえず、好きな本を読むこと。
長さ、厚さにとらわれず。
そして読み方。
読んだ本の感想を言うときに、この感想の元になっているのは何ページの表現によるもので、そして、この著者の過去作のこの作品の影響もあるのでは。
と、ここまで言わないと感想をいうときにだめなのかな、ということを思ったりしている。
本を読むとは、その本についての言及ができること。
そんな感覚もまだあるので、冊数を追う読書にたいしても違和感があるというか。
余談にはなるが、大学時代1000冊読むべしと高校時代の先生に話されてから、それを目標に大学入学した。
実際、初年度100冊ぐらいしかいかなかったので、冊数をおうこともそれ相応の気構えがなければできないのはわかってはいる。
さて、話を戻すとそこまでいくと気詰りになるので、諦めもしながらの読書ではある。
とはいえ、久々の読書のある生活はじつに楽しい。
読書に限らず、作品に向き合う時間を意図的につくらなければ、こういう感覚を得ることもない。
それは肝に銘じて、2022年もしっかり読書の時間をつくっていこうと思っております。