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「串に刺さっている」ことが重要だという話

「焼き鳥を串から外さずに食べてほしい」という焼き鳥屋さんの主張が、SNSで話題になっているらしい。

どうしてこんなにあやふやな表現になるかと言うと、ぼくがその元ネタを見ていないのと、その元ネタに反応したSNSも目にしていないからである。

それでも、ぼくのようなデジタル過疎地の人間にまで伝わってくるのだから、伝聞の力はスゴイなあと思ったりする。

それはさておき。ぼく自身も「焼鳥は串から外さずに食べたい」派である。というのは、別に「焼き鳥屋さんが串打ちしてくれたから」とか「串打ちも技術のうちだ」とか「串から肉を外したら焼き鳥じゃない」とか、そういうことを思っているからではない。

単に「串のまま食べた方が美味しい」と思うからである。

串から外された焼き鳥を一個ずつ、ちびちびとつまむのも決して悪くはないのだけれど、どうしても冷めてしまうし、お肉も固くなるような気がする。

特に上手に焼かれたムネ肉などは、実はモモ肉よりも美味しいんじゃないか・・・と思うことがある。だが、串から外すと一気に美味しさが半減する。いや、ひょっとすると、もっと減っているかもしれない。

「焼き鳥」は実に不思議な食べ物だし、調理法である。だいたい、なぜわざわざ肉を串刺しにして焼かなければならなかったのか。鉄板でもフライパンでも何でも、そういうものに並べて焼いたって良いはずだ。でも、串に打って直火で焼くからこその美味しさがある。

「串に刺さっている食べ物」への偏愛 その1

ここからはもう個人的な趣味嗜好の世界に入るのだけれど(元々そうだよ、という冷静なツッコミはありがたく受け止めさせていただく)、串に刺さっているものは、概ね串に刺さったまま食べた方が美味しい、と思う。

いや、何なら「美味しいかどうか」は置いておいたとしても「串に刺さったまま食べたい」という欲求が強い。

先ほどからずっと書いている焼き鳥についてもそう。串から外されたムネ肉や砂肝を見ていると、何となく悲しくなるのはぼくだけだろうか。ほどよく焼けたところを、串のまま「熱い熱い」と言いながら食べる。これが一番美味しい気がする。

「だんご」はどうか。だんごもまた、串のまま食べたほうが美味しい気がするもののひとつである。

だんごは、実は焼き鳥よりも串のままだと食べにくい。みたらしだんごなどは、上から食べていって3つ目、4つ目あたりに至るとみたらしあんが口の端に付いちゃったりして、実に食べにくい。

にも関わらず、だんごを串から外すことに関しては、ぼくは断固として拒否したい構えである。だんごと断固に関しては、ひとまず見逃していただきたい。

「串に刺さっているもの」への偏愛 その2

これはぼくだけかもしれないが「串に刺さっているもの」は、どういうわけか美味しそうというか、魅力的に見える。

子どもの頃、アメリカンなドラマなどを見ていると、インテリアやテレビ、冷蔵庫、家電や車などには何の関心も持たなかったが、バーベキューで牛肉やら野菜やらを金属の串に刺して焼いているのを見て「ウラヤマシイ!」と思った記憶はいまだに残っている。

年齢を重ねて、いわゆる「バーベキュー」なるものを何度かしてきたし、どんな形であれバーベキューは楽しいし正義だと信じてやまないが(偏った見方)、あの金属の串に肉や野菜を焼いて食する、あのアメリカンなバーベキューは未経験である。死ぬまでに一度はやってみたいことの一つに間違いない。

そうなると、当然だが「チビ太のおでん」にも憧れがある。実際、どこかのうどん屋さんで「チビ太のおでん」と称して、三角に切ったこんにゃくと、天ぷらと何かを刺したやつを売っていた記憶がある。

余談なのだけれど、香川のうどん屋さんでは冬だけでなく通年でおでんを置いていて、その多くが串に刺さっていることが多い。そして大体美味しい。

キッチンカーなどで見かける「牛串」なんてのも魅力的なものの1つである。実際に食べてみるとスゲー美味いというわけではないことも多いのだけれど、どういうわけか人が食べていると美味しそうに見えるし、食べたいなと思う。

あれも恐らく、串に刺さっていなくて、プラスチックの皿か何かに牛肉を焼いたのが置いてあるだけだとしたら、あんなに美味しそうに見えないはずだ。

変化球で言うと「五平餅」というのもある。それこそ高速道路のサービスエリアなんかでたまに売っている。あれもたまに食べると美味しい。あと、アメリカンドッグなども大好きである。「串揚げ」もいい。

こう考えていくと、私の「串好き」は留まるところを知らない。

私の「串」原体験(というほど大袈裟なものでもないんだけど)

そして、私の「串」原体験が何だったのかを急に思い出した。

私は北海道出身で、生まれは苫小牧、育ちは札幌である。子どもの頃、スキーでニセコに行った帰り「中山峠」という場所を通る。そこで売っているのが「あげいも」だ。

「いやいや、あげいもなんて串に刺さってないでしょ」と思うのは、非道民である。道民、少なくとも札幌近郊に住んでいた経験のある人なら「あー、あれは確かに」とピンとくるはずである。

フォルムは大きめのだんごのような感じ。丸ごとのジャガイモに、アメリカンドッグの衣をつけて揚げたやつが3つくらい刺さっている。恐らく塩ゆでしてあるジャガイモに、ちょっと甘いアメリカンドッグの衣がついて、なんだか妙に美味しかったのを覚えている。

ちなみにこんなヤツ。

そう言えば、子どもの頃あの「あげいも」が大好きで、あれを食べたいがために「中山峠に行きたい」と言った記憶がある。

この「あげいも」も、恐らく本来は串に刺さっている必要はないはずだ。第一、食べにくい。

恐らく、これはサービスエリアなんかで提供されているものと同じで「串に刺さっていると、片手で食べられるから便利」ということから始まったのだと思う。でも、ぼくは「あげいも」はぜひ串に刺さっていてほしい。

要は「串に何かが刺さっていること」が重要であって、何が刺さっているかは二の次、三の次なのかもしれない。

それは、人間自分の中心軸さえ決まっていれば、後は何をしていても、その中心にさえ立ち戻れれば大丈夫、ということと似ているのかもしれない。

と、それっぽいことを書いてみたのだが、たまに見かける串が刺さって売っているヤツ。ぼくはメロンが大変苦手なので、いくら串に刺さっていてもメロンは食べられないと思うと、なんか違うような気がしてきた。

長々と何を書いてきたのかわからないのだが、とにかく「串に刺さっている」ことが重要なのだと、ぼくは声を大にして言いたいのである。

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あべ のぶお@セッション型フリーライター
いつもありがとうございます。