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神社スパンで考える。

小さいころから周りの人によく言われていた言葉があります。

「歴史ある神社の跡取りって大変だね」

小さいながらに「そっか、神社って大変なのか」と思い育ってきました。

実際、神職って特殊な仕事だし、今になっても大変だなぁと思うところはたくさんあります。神職になりたてのころなんてはそれはそれは概念もギッチリ凝り固まっていて、こうあるべきだ、って思考が頭の中をはびこっていたと思います。そしてそのことが一層自分を縛っていました。

さて、私は神職になって17年になります。17年間神社に携わってきましたが、もっと言うと小学1年生のときから手伝いやらなんやらで神社に携わってきたので、30年以上神社とともにあります。

神職になってからの17年間を思い返すと世の中がすごいスピードで変化してきました。

就職氷河期やインターネットの爆発的な普及に始まり、リーマンショックや東日本大震災、そして今回の新型コロナウイルスとそれに伴うニューノーマル。

気が付けば知らない間に自分も周りもだいぶ価値観が変わりました。17年とはそれほどまでに自分の中の何かを変えてしまうのに十分すぎる期間でした。


隠津島神社は勧請されてより今年で1251年が経ちました。
初代から数えて今の宮司は62代目になります。

そこから考えると、私が神社に関与した時間は1251年の内のたった17年でしかありません。携わってきた時間を加えてもそれでもたった30年です。

私からすれば17年はとても長い年月ですが、神社から見れば1251年のうちの17年です。1251年の内のたった17年間神社に関与しただけ、とも言えます。

そんなことを考えていたある日。「神社を管理していくのってとても大変だー」と思い込んでいた思考が「1251年もあればそりゃーいろいろあるよねー」という思考になりました。

神社スパンで時間を考えると、実際自分が生きている間に神社に対してできることはあまりにも小さく、また影響を及ぼせることもとても少ないです。

ただただ長い歴史の中にポツンといるだけ。

たとえそれが現世を生きる人々にちょっとした影響を及ぼすことがあったとしても。

実際、ひい爺様の現役神主時代を見たこともないし、その先代、先々代、先々々代の神職が一体何をしてきたかなんてほとんどわかりません。ひいひいひい爺様がなんか村の偉い役職に就いていたっぽい、など不確定な「言い伝え」はありますが本当かどうかよくわかりません。

でも確かなことは、

自分が存在していて、神社も存在していること。

そう考えるとこれって実はすごいことなんじゃないかと。

たくさんのご先祖様たちが生きている間に何をしてきたかはよくわからないけど、少なくとも自分も神社も存在しているということは、ご先祖様たちがちゃんと生き抜いて、かつ神社を残してきた、という事実があります。

じゃなければ自分は生まれてこなかったし、神社もなかったかもしれない。

神社って建物だけがひっそりと長い間建ち続けることができるとは思いますが、存続していくことは一人二人だけの力では絶対にできません。

日本は大昔から災害大国です。
神職として奉仕してきたたった17年の間でも多くの台風や地震が発生し、そのたびに神社のお社や境内のどこかしらが被害を被っています。現代の土木・建築技術をもってしてもこれらを完全に防ぐことはできません。

神社が、姿かたちは変えながらも2021年の今日まで存在しつづけていることは歴代の神職をはじめ、地元の方々やその他多くの方々の関与があったからこそです。

その上で神社スパンで物事を考えると、今後やるべきはいたってシンプル。

それは、

これからもたくさんの方に支えられながら、そのことに感謝して生きる。

これに尽きるんだと思います。
自分の人生は自分が主人公ですが、歴史の大河の中ではほんの小さな水滴でしかありません。
かといって、どうせちっぽけな時間なんだから慎ましく生きなきゃならんのか、という結論に至るでもなく、川の流れに身を任せて肩の力を抜いていこう。そんなふうにも思えるわけです。
自分にできないことはできる人にお願いして、自分にできること・自分にしかできないことはとにかくがんばってみよう、そう思えるようになりました。

この世界で生きていく中では、人間関係をはじめ、競争、格差、差別、環境など実に様々な問題や課題にぶち当たります。これらの問題はとても厄介で、放っておくといつの間にか人間らしい生活が遠のいていってしまいます。
人間らしく生きられなくなると心はどんどんすさんでいき、生活や人生に希望が持てなくなってしまい、やがては・・・。

こういった問題って、地球上から人間がいなくならない限りなくなることはありません。

これらの問題は決してなくならないので、問題を解決する。から問題と共存する。にシフトしたほうがいいんではないかと。
そのためにも一度俯瞰的な視点で自分を見つめる。
私の場合、神社スパンで俯瞰できたのがとてもよかったんだと思います。

俯瞰できるのであれば、別に神社じゃなくても空とか宇宙とか歴史とかなんでもいい。
自分の存在を味わう時間がほんの少しでも確保できれば、世界はもっと素敵に見えるんじゃないかと考えたりします。

ふと、そんなことを思いました。
こういう宗教哲学があってもいいじゃないかな。でもこんなこと言ったら哲学者に怒られるかしら…。


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