『紀 金春秋来朝と質』の真偽について 阿部 学
序(要約)
『孝徳紀』では、「阿湌金春秋を遣わして(略)そこで春秋を質とした」と、孝徳三年の記事があるが,質になった内容の正当性に重大な疑義があり,『新羅本記』・『日本書紀』中心に、冠位、その他、春秋を表す文章にも言及する。なお、金春秋の「日本質」については、三池賢一氏の先行研究があり、「日本に質」記事は半島の諸情勢などの考証から書紀の編者の創造であるとの結論があった。本稿では、冠位や一部文についての疑義について述べる。本論中では、『孝徳紀』は『日本書紀』、『新羅本記』は『三国史記』の本記である。
一、『孝徳紀』春秋爲質
この記事は、孝徳天皇三年の十二月条の後に続くこの歳の条にある記事で、傍線のある部分の三点について書紀編纂者の誤り・創作があると思われた。新羅、遣上臣大阿飡金春秋等、送博士小德高向黑麻呂・小山中中臣連押熊、來獻孔雀一隻・鸚鵡一隻。仍以春秋爲質。春秋美姿顏善談笑。)とあり、新羅が,上臣(まかりだろ・大臣)大阿飡〔一七位階の第五)金春秋〔のち武烈王〕らを遣わして、博士で小徳の髙向黑麻呂、小山中〔天智三年の冠位二六階の一六位〕の中臣連押熊を送ってきて、クジャクッ一羽、鸚鵡一羽を献〔上〕した。そこで春秋を質とした。春秋は、姿や顔が美しく,よく談笑した。注2
ところが、この二行からは、数個の疑義が見つかった。第一の疑念は、『日本書紀』金春秋の階位が「大阿湌」であることである。『新羅本記』善徳王(在位六三二―六四七) では、以下のようにある。
十一年 冬 王將伐百濟 以報大耶之役 乃遣伊金春秋於高句麗 以請師 注1
十一年(六四二)冬 王は百済を討伐して、大耶の戦闘の報復をしようとし、「伊湌の金春秋」を高句麗に派遣して出兵を願いでた。注2
ここでわかるのは、孝徳三年以前にすでに金春秋の位階は伊湌だった。更に続いて真徳王の時代の記事でも第二八代 真徳王(在位六四七ー六五四)
冬 遣伊金春秋及其子文王朝唐 太宗遣光祿卿柳亨 郊勞之 既至 見春秋儀表英偉 厚待之(注1)二年(六四八)冬の記事でも伊湌だったのである。〔この年〕伊湌の金春秋とその子の文王とを唐に派遣し、唐に朝貢させた。太宗は光禄卿の柳亨郊を派遣して〔春秋たちの〕労苦を慰問させた。やがて〔王都に〕ついた春秋を見ると、その容姿が優れていたので、手厚くもてなした。注2
以上のように,新羅の王族中の王族の金春秋は真骨である。大阿湌は、真骨では最下位の五番目である。伊湌が一番、五番にあたる。まさに、『孝徳紀』の大阿湌金秋がたった一年で四階級特進。このようなことが起きるのだろうか。『新羅本記』では、この事実はないのであるから、金春秋の階位は、大阿湌ではない。その誤りにも気づかない撰述の担当者は、小山中中臣連押熊の位も間違って記している。というのも小山中という天智三年制定の冠位(注⑦を六四七年の記事で使用した。博士小德高向黑麻呂の冠位についてだが、記事は六四七年なので、推古一一年制定の冠位⁷を賜ってからも変わらず有効なのは理解できるが、大化三年(六四七年)の人物が未来の官位をいただいているのは奇異そのもので、どのように説明すれば真実に繋がるのか理解に苦しむ。さらに、“顔が美しく,よく談笑した”とある。
春秋美姿顏善談笑。注3
この『孝徳紀』の文章は、『新羅本記』春秋を見ると、その容姿が優れていた。注2
「見春秋儀表英偉 厚待之」の話か文章を目にして知っていた編纂者の誰か(この頃、山田史御方が新羅留学から帰国や他新羅との交流も盛んであった)によってこういった創作が行われたのだと推定できる。これら、杜撰な創作のまま撰述が終わったのは、編纂が慌ただしかった結果だと想像できる。なぜ杜撰だったのか、この部分に限定していないが、森氏によれば不比等の死が迫ったことにより、上撰を急がなければならなかった結果からだとも述べている。注4
七世紀前後の時期に、編纂も行われて完成に向け作業が進んでいたが、その頃は新羅との交流も多く、いくつかの英雄譚からヒントを得た記載もあったと断言できる。また、この記事以外でも合成・創作がおこなわれたと推定できる。
参考文献等(日本書紀の漢文は http://www.seisaku.bz/shoki_index.htmlから引用しました。)注1 http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sangokushiki/shiragi/050527gen.htm(善徳王/真徳王)
注2 井上秀雄・鄭 早苗訳注
注3 原本現代訳日本書紀(下) 山田宗睦訳巻二五 八二頁、付表 官位名の対照表 二九二頁注4 日本書紀 成立の真実 - 書き換えの主導者は誰か 森博達
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